情報主義に巣くう暗鬼|欺罔の道具としての情報

欺罔の道具としての情報

子供の頃、夏の夜の雑木林へ祖父と二人でカブトムシを捕りに行った時のことだ。その夜は思いがけないほどの大猟で、カブトムシの群がる樹液から樹液へ、興奮して夜の林を歩きまわった。そこへ、やはりカブトムシ目当ての一団が林に入ってきた。すると、祖父はその団体に近づき、こんなことを言った。

「今そこで、大きなマムシを見かけましたよ。私らも引き上げるところです」

それを聞いた一団に、一瞬「え」と冷めた空気が流れたのを傍で感じ、同時に「なるほど」と察した。祖父の言ったことは嘘だが、その嘘は私にはとても都合の良いものだ。そう、マムシはいたことにしよう。そうすれば邪魔されず、カブトムシをもっと独り占めできる。

マモニズム(拝金主義)とコマーシャリズム(商業主義)が最大の支配をみせるこの世において、欺罔の道具としての「情報」がおそらく、規模も質も最大最高であろうと思われる。

高度情報化社会など、一皮剥けばじつにスノッブ(えせ紳士、snob)なものだ。情報あるところすべてに、あの夏の夜の嘘つき祖父がユビキタス(遍在、ubiquitous)に立っているようなものである。しかもそれらの嘘には孫の喜びを慮るような心寄せなど毫もない、カネによるオートマティズムとして遍在する嘘である。

エビデンスもまた欺罔のひとつにすぎない

高度情報化社会とやらでは、情報の信憑性のためのエビデンス(証拠・根拠等、evidence)を示せとかまびすしい。しかし、示されたそのエビデンスの信憑性にもエビデンスをと、真のエビデンスはじつはかぎりなく藪の中にあることはあまり意識されていないのか、2つ3つのデータグラフを見せれば、けっこうな数の人が溜飲が下がったかのようにおとなしく納得する。

データにせよグラフにせよ、エビデンスとして示すものにバイアス(偏向、bias)をかけることなど造作ないことだ。そして実際、そうしたものの多くにバイアスがかかっている。なぜなら、そも情報として発信される動機の多くは「カネのため」であるからだ。カネは増えてなんぼなので、カネのための情報にはむろん、そのようにはたらくバイアスをかけるのである。

イメージ

データやグラフ=(イコール)エビデンスではない。
それらはアピールの手段のひとつにすぎない

たとえ話をしよう。下のようなグラフ(このたとえ話においてはそれが何にかんするものでもいい。株価、生存率、出生率etc.)を提示し、こんなことを言う者がいるとする。
「直近のデータを見ても明らかなように、結果は右肩上がりの望ましいラインを描いており、私の任期約10年間におよぶ首尾一貫した政策・オレノミクスが正しかったことは明白であります」

例_グラフ

ツッコミどころ満載のこんなちゃちなグラフでも、意外にもけっこうな数の人が「落ちる」ものである。そして彼に続投の一票を投じる。

まず、前提として頭に叩き込んでおきたいことは、データやグラフ=(イコール)エビデンスではないということだ。その前提がなければ、右肩上がりの線の「イメージ」に引っ張られる。そんな単細胞な自分に嫌気が差すならば、データやグラフ=アピール(主張)であるという前提に変えなければならない。そのような前提に立つ人からすれば、初見でツッコミどころは少なくとも10は頭に浮かぶものである。

データやグラフは魚介と同じ。
生で食うと腹を壊すおそれあり

今では少し手間暇かければ、グラフ化できる技術があふれている。パラメーター(必要な情報、引数、parameter)になりそうなものも、書籍からネットまで、探せば手に入る。それらを使って、示されたデータに疑義のメスを入れることはそんなに難しいことではない。

先のグラフ、一目でツッコミたくなる箇所といえば、横軸の時間において――2018から2019の間の線を数えるに3ヶ月毎に入れた線であることから――クローズアップされた期間が2017年9月から2019年9月の24ヶ月である根拠は何か――直近以外のデータには本当に価値がないのか――という疑問。縦軸の単位が「0.1」きざみであることは、取り扱うデータにおいて、それが適正単位なのかどうかという疑問。こういうちょっとした疑問にたいして、自前でデータを調査・拡張・修正・複眼化してみると、面白いことが分かったりすることがあるものだ。

エビデンスの皮をかぶった主張(データやグラフ)

先のグラフにパラメーターを足して、グラフを拡張してみるや、あら驚き!

例_グラフ

拡げてみれば、主張者の任期約10年の間、乱高下しながら全体としては右肩下がり、下降曲線だったのが事実のようだ。右肩上がりの(都合の良い)ラインを恣意的にトリミング(黄色い部分以外を切り落とす)していたのである。バイアスのかかったデータ、グラフによくある、ちゃちな小細工である。木を見て森を見ずならぬ木だけ見せて森は見せずであり、履歴書に「○年○月退職」とだけ書いてその理由が「酒に酔ってセクハラしたことによる」とは書かないのと似たようなものである。

次は単位についてだが、「0.1」という細かい数値を用いることが適正なデータというものもある。たとえば、それが0.1mgで致死量になるような毒物であったりする場合だ。それにたいし、「0.1」ではまるで実効性のない、無意味な対象もある。たとえば、体脂肪率や血圧のようなものだろうか。

単位のケタを恣意的に設定し、大袈裟にみせたり矮小化させたりするのもよくある小細工だ。先のグラフの縦軸の単位が、じつは「0.1」では意味がないにひとしく、その10倍の「1」きざみが適正であり実際的だった場合、ではその単位を適正に修正すると、あら桃の木!

例_グラフ

ずいぶんと印象がちがう。誇張されていたのは明らかだ。
「君さ、針小棒大に褒めそやすのは、君の奥さんが髪型を変えた時ぐらいにしておきなさい」
と優しく諭してあげようじゃないか。

その他、グラフの化けの皮にはこんなものもある。先のグラフは、グラフにおける「山」が高いほど望ましい、正価値であるとしたとする。そしてその価値は他の「A」という価値にも相関していると、グラフの提示者が豪語していたとする。しかし、グラフでは「A」との相関関係は分からない。そこで「A」についての同期間のグラフを重ねてみるや、山椒の木!

例_グラフ

まるで相関していない。まったくもって関係なし。

さらに「B」という、同じくグラフの山が高いほど望ましい、正価値であるところのデータを重ねてみると、

例_グラフ

元となるグラフの山が高くなるほど、「B」が落ち込んでいる。背反性は明らかだ。つまりこのグラフには利害得失の他側面が欠けている(隠されている)ということになる。「データやグラフ=アピール(主張)」とはまさにこのことだ。たとえば男性が「高年収」とだけアピールし、じつは「高脂肪」「高慢ちき」であることは隠したり、あるいは女性のスリーサイズで「バスト90」だけをアピールし、じつは「ウエスト90」「ヒップ90」であることは明かさないのと似たようなものだ。

結論としては、最初のグラフは見せたい線の見せたい箇所だけを誇張して見せた、事実無根のフェイクとまではいわないが、きわめて恣意的で、かなりグレーなデータといえる。しかし、これは特筆大書すべきことではない、常套手段のうちである。