消えたシンポシオン 擬い物の社交

現代のシンポシオンを考える――
技術は社交の移転に成功したか

「SNS」は「Social Networking Service」のことだが、「Social」つまり「社交」の場を技術によってネットへ移転するこの試みは、現時点でおおよそ失敗していると私はみている。この考えに反する事例を挙げるとき、それらが「社交」ではなく、多くは「情報とその伝達」であることに気づく。あるいは「情報とその伝達」をもって「社交」とするという、「社交」という観念・通念が、もはや技術によって無意識的に歪曲・改竄されているともみえる。

「社交」を辞書でひけば「社会の交際」「世間のつきあい」とある。字面だけみれば、その定義は「SNS」も立派な「社交」のひとつと数えることになろう。

しかし「社会の交際」「世間のつきあい」の本来性、意味と価値にまで踏み込んで問うてみれば、「SNS」を象徴とする現在の「技術に傾注した社交」は、社交の場に帰属する人間の「社交への総合的な解釈と理解」によって組み立てられる「社交」ではなく、「技術」のプラットフォーム(環境、基盤)へ誘導され、モデル(模型、雛型)化され、きわめて単純で無機的に事物化されることをもって社交の場に降り立つことである。それは言葉のプラスティネーション(プラスチック化、plastination)のような変質を余儀なくされることでもある。

そこでの「言葉」はまた、言葉の発生を無限に許容するプラットフォームのマネージャーによって独裁的に評点され、及第点に満たぬものは無言化させられ、あるいは大量のニューズ(新情報、news)の濁流に排棄され、なんの蓄積性もない。また、実体から遊離した感覚を伴わない大量の言葉には交際への気遣いもなければつきあいの良識も必要としないため、痛覚をもたぬ言葉の交わりは、やがて野蛮な優勝劣敗、弱肉強食のアノミー(無規範)へ帰着する。

これのどこがインタラクティブ(双方向的)な開かれた自由な社交の場だというのか。便利なデジタルデバイスによってつながる「無限」に向けて放つ「言」が「無言」に帰すというのであれば、180度回頭、カウンターカルチャー(対抗文化)として復古として、「社交」においてもレトロに開拓地をもとめるのは正気の沙汰である。

このことは、ネットの急拡大とそれに伴う社交のネット次元への移転によって、では社会の、人間のつきあいは、より満たされた馥郁たるものになったのかという問いにたいする率直な感想も証左となろう。技術によって拡張し(過ぎ)た社交は擬い物の「偽社交」となり、薄行と化した。それは技術に傾注した社交の成れの果、つまり社交の傾頽である。

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言葉の場(社交、職場、家庭)

他者とかかわる以上、職場も家庭も社交(社会の交際)の輪郭を帯びる。そしてどんな社交にも人は言者(ものいう人)として立つことになる。そうであるならば、社交とは言葉が火口となってはじまる焚火と、それを介して語らう人々のシンポシオン(饗宴、symposion)のようなものだ。

シンポシオンに社交の本質、本来性をみるならば、言葉とその統辞法は社交体をなす分子であり、気遣いは分子認識(他者ならびに自己を認識すること)だろう。社交の段階は言葉によって決定づけられ、言葉が織りなす社交の立ち回りのなかで「他者と自己の解釈と理解」を組み立てる。本来的社交の場とはそういうものではないだろうか。

そうであるならば、ネットの場のみならず、職場においても家庭においても、そこで取り交わされる言葉は、言葉の実力・ポテンシャルに遠く及ばない、言葉の皮相域のみで用を弁ずるため、社交の段階が低位に固定される。その結果、おしなべて世間が低位に固定される仕儀となる。「クライアントの無茶振りでサイトマップからやり直しになっちゃったよ」とか「冷凍したカレーがあるけどそれでいい?」といった言葉の運動のみでは、現代の複雑きわまる社会の問題や、本来的に不確実性に満ちた生に抗する言葉の筋力は育まれないだろう。

それら(ネットや職場や家庭)における言葉をシンプルでいいだの庶民的でいいだのと胡座をかいてばかりはいられない。社会や生の厳酷な闘野たる領域を支える主柱の成分として、ネットや職場、家庭に散在する言葉のみでは脆弱すぎるのだ。ともすればぞんざいとしか映らない大量の言葉がもたらした現実をしかとみて、言葉にたいする自己欺瞞をやめるべきではないだろうか。痩せ細った言葉に危機感をいだくべきではないか。気楽な言葉、流行りの言葉もいいが、言語風景のコントラストとして、鈍色をした鉱物のような言葉もまた必要なのではないか。

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職場、家庭にたいし、社交はそれらの言葉を統合する役割もあり、その統合の場での言葉の研鑽、解釈と理解が、職場にも家庭にもフィードバックされる。つまり言葉の拡充と高次化は社交の次元によって行われると考える。 イメージ
社交との連関なき職場・家庭は言葉の拡充と高次化の機会を損し、分離して存在し、技術的あるいは慣習的な言葉のみに定位するため、議論や表現が単焦点化あるいは矮小化する仕儀となる。それは言葉の頽落である。