21世紀のソフトスラムを構想する 日本のスラム化

21世紀のソフトスラムを構想する
日本のスラム化

私は、日本はもはやブレーキングポイント(限界点、破壊点)を越え、ソフトランディング(軟着陸)不可能な域に達したと、半ばを越えてそうみている。 その考えの拠り所として、たとえば20年以上にわたり、国体のネクローシス(局部的壊死、necrosis)の拡大を黙殺しつづける緊縮財政、もはやカルト的ともいえる過剰な新自由主義にロックインされた観念と機制の瀰漫があり、あるいは不戦の契を不磨の大典とし、自尊心の忘却を教育とし、パワーレス国家を理想国家と美称する観念の瀰漫があり、あるいはテクノロジズムの行進にサイボーグ(情報被制御体)となって歩調を合わせることこそヒトの進化とする画一的な定義を鵜呑みにし、イノベーショナリズムの詐術的創造のための破壊行為と躁狂になんらの疑念も批評も向けることなく、自動症的に安定的虚無を食む世人、世態の瀰漫がある。

卑近なデータでは、世界のGDPに占める日本の割合の推移をみても、1995年にはその割合は17.6%あったが、2010年には8.5%とほぼ半減し、その状況にたいする日本の態度をみれば、これは何か「日本の世界のGDPに占める割合を3%までに抑える」というようなグローバルなアジェンダ(予定、議事日程、agenda)を前提とした論理に依拠しているのではないかと考えることは、ごく論理的である。

そうしたありさまに、もはや本能寺で信長公がいったといわれる「是非に及ばず」、えい、こうなったら決死的ハードランディング(硬着陸)に向き合うことがライフデザインの主たるコンセプトであると、腹を括りもする。それは私の生が親の世代とは大きく異なる景色のなかに物語られるであろう可能性を覚悟し受け入れることを意味する。

楽観への不審

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「日本がスラム化だなんて、いくらなんでも」という人は多いだろう。技術は近い将来、人間を労働から解放し、不労生活を可能にし、技術によって人間の寿命も増進され、不老長寿への敷石となるだろうとか、まるで当世の『安愚楽鍋(明治4~5年の滑稽小説。仮名垣魯文作)』でも読んでいるかのような、西洋気触(かぶ)れならぬ技術気触れめいた楽観を見聞きする。

しかし、こうした単純な計算からの浮華な「情報」にたいし、複雑にして実地に固く根を張る「経験」の大樹は、総合的理解は訝しむ。

私がかつて見聞きしたところによれば、西暦2000年も過ぎた頃には、たしか車は宙に浮き、人の活動範囲も宇宙へ拡がり、SF(サイエンス・フィクション)にみるような、技術によって可能力が増大した自己満悦的未来が待っているはずだった。大友克洋氏の『AKIRA(アキラ)』においても、舞台は2019年、登場人物の「マサル」は当たり前のように宙に浮く機械に乗っている。

2021年現在、部分において技術は想像を超えるものもあるにせよ、技術革新なるものの労働節約的意図は、現状をみるに、人を労働から解放せんとするものではなく、むしろ人の価値を節約し、ヒトという生物(生活現象)を下位に定位し、さながら収繭(しゅうけん:蔟〈まぶし〉から繭〈まゆ〉をぬきとること)のごとき、映画『マトリックス』の世界のような完固な構造をさらに増強しつつある。

緊縮財政や新自由主義に傾倒した経済観念や機制も、今後の世界の趨勢によって、あるいはオールドメディアによる「浸潤の譏(そしり)」が――とくに為政者における――世代交代によって縮退していくであろうという楽観的予測もあるが、現状をみるに、若い世代のなかには緊縮財政と新自由主義に傾いた土壌を母なる大地として生まれ育ったことにより、より消極的な性向、観念をもつ者もおり、そのトーンは国防観にも浸潤し、楽観にたいし不審の目を向けざるをえない。それは戦後日本の不可逆性を認めざるをえないということでもある。

およそ人間の現実というものは、人の計算や想像にたいする反計算、反想像といった逆理の性質を多分にふくむものであることは、経験の包括と経験からの析出を証左とした事実であろう。 未来というものは過去がそうであったように「計算と反計算」「想像と反想像」の併存現象であると知れば、現在、生活現象の視座から考慮すべきはリスクへの用意であり、しかもそれは経験が知る反計算と反想像の結果にもとづけば存外の次第、酷烈なものであろうことがうすらみえてきそうなものである。

悲観への対策

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ここで「悲観」とは、歴史のなかに点綴する「窮地」というものに、よもや自らの生が降り立つことになるという想定のことである。そしてそれがあまりにも過酷にならぬよう、可能なかぎり「ソフト」な内容であるよう、「窮地」を構想(デザイン)することが「対策」である。

「人生100年時代」などという空語に透けて見えるのは、能天気な現在の楽観的調子が100歳を迎える前にことごとく破調する時、反計算と反想像の死角からの急襲に狼狽することなく、その峻厳な窮地で火を熾し飯を炊く者と、一方で、惰性系に自らを定位しつづけたあげく、萎縮したおのれの知の狭隘に圧殺される者のスラップスティック(どたばた)、毎度のマス(ばらばらの大衆)の痴態といった三文絵である。

絶えず理想を下回るのが現実という位相の相場である。太陽(理想)を目指して飛んだあげく、墜落して取り返しがつかないことになったギリシア神話のイカロスを勇気の象徴としてのみ扱うのは、楽観的調子の惰性系の住人の視座である。あれはむしろ無知と無謀の象徴であるというのが実体的だ。「知足(足るを知る)」とはソフトランディングの技巧的精神であり、太陽は目指すものではなく電力リソースとして拝借するにとどめ、階下の囲炉裏の炭火の灯りを目指すのが「荒(サ)ビタ世界」で「仕合せ(幸せ)」の物語を味読するためのかしこい構想ではなかろうか。

蝋で固めた羽根で太陽(理想)を目指すのは無知と無謀、絶望と諦観にのまれ羽根(挑戦)すら手にしないのは消極、それら極端にたいし、端から琵琶湖の制覇に集中し、そのための構想の実践者こそが鳥人間、否、綱渡りの平衡に挑む挑戦者なのだと私は思う。

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