摩滅のイズム

摩滅のイズム

当世に瀰漫するさまざまなイズム(主義、説)のひとつに、摩滅の観念に囚われた摩滅のイズムがある。万象のすり減ってなくなる、費消するという物理の一側面に異常にフォーカスした摩滅のイズムが文明社会の主流のイズムとなり果せている。たとえばそれは、もはやジェロントフォビア(老化恐怖症、gerontophobia)とよんでさしつかえない「老い」への異常な忌避――若さへの貪婪――であったり、『iPhone』などが12、13、14…ときりなくナンバリングされるようなニューネス(新奇さ、newness)への自動症的様態であったりする。つまり大量消費社会であり、マス・ソサエティーの標準、基準、世界観である。

「老い」の忘却を望む社会、「老い」の意味と価値が流失した社会は、「老い」の正価値の側面を見出だせず、負価値の側面のみをみる。つまり「時間の立体性」を見失う。それは重要な視座がいくつも脱落する仕儀となる。たとえば、生住異滅の四相にあらわされるような道理の背後にある実在への視座を失うことにつながり、事物が懐妊期間(時の効果)を経て中庸や統辞法を獲得していくという視座を失うことにつながる。あるいはその反作用としての「若さへの貪婪」がネオテニー(幼態成熟、neoteny)★1を生むということなどもある。

このような摩滅のイズムがかくも瀰漫してしまったのはなぜか。それはアメリカニズムを前身とし大膨張した「グローバリズム」の手段としての「テクノロジズム」が、行為としての文化破壊「ヴァンダリズム」を橋頭堡に、時間と空間の意味と価値の破壊的変化をもたらしたことに由来する。そしてその結果、およそ文明社会に生きる人間は多様性を礼賛しながら最大の画一主義である「グローバリズム」に定位するという統合失調症的矛盾への防衛機制として、若さとニューネスを貪り食らうのである。多様性と新奇性を結びつけ単純化しながら、誤魔化しながら。そして摩滅のイズムの末梢は拝金狂とでもいうべき「マモニズム」と、カネのオートマティズムとしての「コマーシャリズム」に帰結する。それは俗悪、卑俗な「ヴァルガリズム」への画一、その瀰漫でもある。

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老いも若きも若造化する社会

老古錐(ろうこすい)という言葉がある。古錐(こすい)は先が摩滅して丸くなった錐(きり)のことで、その意味は「円熟」や「熟成」をさす。「老」という字の正価値をとったこのような言葉は、いまや空語になってしまった。四十路、五十路もすぎた芸能人の取り柄が見た目の若さしかないというのなら、もはやタレント(才能、talent)とよぶに値しないのだが、摩滅のイズムの世間はそのことにも一顧だにしないのだから、もはや空語であろう。

「若さへの貪婪」というものには統合失調症的視座からの「偏頗な完全観」がその根幹にあると思われる。いい年した大人が二十歳の相貌で気取っていたら、老古錐を知る茶聖・千利休ならば、その相手に見合う(安い)茶器を用いるのではないだろうか。平面的時間に生きる者というのは、立体的時間感覚をもちえた者からすればそれほど稚拙であり未熟であり、円熟という鍾美の域から程遠い存在なのだ。しかし残念かつ恐ろしいことに、薄っぺらな時間感覚が世間の、社会のトレンド、イズムとなり果せているというのだから、今この時代に千利休が降り立ったら、茶碗を投げつけて割ってしまうのではないか。「老いも若きも若造だらけ。茶が泣くわ」と。

「若さへの貪婪」というのは畢竟するに「老、すなわち時間の負価値を除去したい」のであろうが、それが「負」としか映らないのは、その知が現象の皮相しか捉えられず不磨の本質へとどかぬからであり、その貪婪の果てに除去されるのは「知力の進歩」でしかないのである。

★1 ここではやや独自の解釈として、性的・身体的には完全に成熟した個体でありながら、知的・精神的に未成熟な個体・現象のこと