統合失調症社会

頭の中まで縦割り化、専門化、
統合失調症に陥った人と社会

現在の社会システムは、システムそれ自体のための機構であって、人間個人をみてはいない。そうした社会システムにおいては、人間個人は否応なしに専門性をもとめられ、統合性の出番は失われていく。統合とは、二つ以上のものをひとつに統べ合わせることだが、こうしたホリスティック(全体を包括的に捉える態度や考え方、holistic)に事を行う能力は退化する一方である。それがひいてはシステムにフィードバックされ、最終的には統合失調症社会となる。

たとえば「肛門科」なるものは象徴的である。大腸・直腸・肛門の疾患を対象とする外科学・消化器外科学であるとしても、その部位に起きる疾患の究明には、口という入り口にまで通じる長い経路も視野に入れる必要があるはずで、そうすると、じつは疾患の原因は専門外領域にあるのかもしれないということになる。生活態度や職業的条件などが、最終的に肛門に疾患として表れているのかもしれない。さらに敷衍して、精神をふくむ身体という生命活動全体を考慮すれば、肛門の疾患をまじまじ見つめた末の治療が姑息的治療に終わる可能性があるということは、統合的思考においては当然の帰結である。

しかし私のみるかぎりにおいて、多くの人や組織は、システムの内部構造としての部分的活動単位にもはや病的に終始しており、喩えるならば肛門しか見ていない者だらけだ。マニアックすぎるといいたい。そのように度が過ぎた、モジュール間が相互に絶縁され機能障害を起こした集合体、またそのような思考が蔓延る社会を統合失調症社会とよぶことにする。

デフレすら克服できない
統合失調症社会の経済「緊縮財政」

最近、少しはましなメディアにおいて、MMT(Modern Monetary Theory)を契機に――あるいは貧困・衰退・没落といった現実にいよいよ直面し――カネの仕組み、経済の仕組みにスポットをあてた論が展開されている。しかしここでいいたいことは、MMTをはじめ、新たなアイデアの是非を問う前に、何事も、常に、全体の一部としてみているかどうかである。

カネの計量的側面(計算可能な数量的側面:経済)のみならず機能的側面(現実という全体性のなかで実際にどうはたらき、連関し、現象するか:経世済民)を複眼的に見据え、統合を目指すという議論のはじまりの視座を確認した上でなければ、またしても騒擾に埋もれ終わる仕儀となるにちがいない。たとえば「MMTer(MMTを是とし主張する人)」という呼称が、すでに水掛け論の域を出ていない、未熟な議論に終わる前兆のような、統合失調症的ニオイを醸している。

現在の日本の経済的疾患であるデフレ(デフレーション、deflation)とは、世間をまわるカネの流れが細って、世間が痩せすぎてしまった栄養失調状態のようなものだ。政府以外にカネを作ることはできないので――政府の特権である通貨発行権を政府以外がやれば通貨偽造の罪で犯罪だ――皆が互いに絞りにしぼった財布からカネを頂戴すべく知恵をしぼる。策を講じる。価格破壊などをやってみる。しかしカネは増えない。破壊されるのは世間の活動である。

数十年も治らぬ難病となったデフレにたいしては、MMTerがいうように、需給バランス、インフレリスクに配慮しながら、国債発行も是とすべきであろう。そもそも、いわゆる「国の借金(政府の債務、負債)」というものは、政府から世間へ移動したカネのことだ。

たとえるならば、店で1,000円の買い物をすると、財布から1,000円が出ていき(赤字)、店のレジに1,000円が入る(黒字)。客からすれば1,000円は失ったようにみえるが(赤字)、店からすれば1,000円の売上である(黒字)。カネは使えば灰になる薪木ではない。カネは消えずに移動するというカネの基本動作を知れば、政府の支払いは世間というレジに移動したようなものだ。「国の借金(政府の債務、負債)」を世間皆して返しましょうというレトリックは、ツケを店に払わせようとする質の悪い客の誑惑といえる。「借金」「赤字」といった言葉の印象を用いた印象操作、欺騙の向きがあるとみえる。

通貨発行権――打った数字がそのままカネになる魔法のような電卓をもっているに等しい能力――をもつ政府と、財やサービスといった商品豊富な世間の良好な関係で留意すべきは、現状の日本経済においてはインフレ率であり、貨幣の発行額という数字(計量的側面)ではない。政府にとっては水がコップに何リットル注がれているかに汲々とするのではなく(計量的側面)、コップを程よく満たし、あふれさせないこと(機能的側面)が管理の本質であろう。しかし、この単純なことすら理解に及ばない。理解したとしても実践に及ばない。狭隘な視野においては、専門性は全体から分離し、本来の意味と価値を失う。そしてカネの計量的側面だけが分離して、機能不全を起こしている。全体をかえりみぬ専門性など、肛門ですらない落とし「穴」でしかないものだ。

「緊縮財政」とは、政府の「赤字」を減らす財政であるから、これまで述べたように、それは世間の「黒字」を減らすということでもある。赤字と黒字はイコール(同値、equal)というカネの原則だ。「プライマリーバランス」とは税収と一般財政支出を均衡させることだが、これは政府の財布を絞ることによる世間にたいする不買運動のようなものではないだろうか。嘆かわしいことだ。なにより嘆かわしいのは、自分たちへの不買運動の態度を明らかにする者たちを自分たちで選びとっているという世間である。

ちなみに税についていえば、税は財源ではない。徴税は財源確保が第一義となる手段ではない。税は物価調節の手段であり、活動調節の手段である――前述のコップと水の喩えでいえば、コップに入りすぎた水を抜くような調節――。 たとえば、動物愛護の精神から、動物の皮革製品の流通を阻害したければ、皮革製品に多大な課税をすればいい。つまり消費税は社会保障費の財源確保(計量的側面)ではなく消費活動の阻害(機能的側面)こそが意義の本丸であるがゆえに、このざまなのである。 税においてもまた「計量的側面」のみが取沙汰され、「機能的側面」がすっぽり抜けているのだ。

このようにして政府も世間もなく、日本は一丸となって、未来への借金という数字を恐れて現在という機能を断ち、同時に未来をも失うというニヒリスティック・エコノミー(虚無的経済)を盲進しているのである。

ちなみに、MMTにみる問題、それは、世間のなかの一部に不当にカネが偏ることだ。先の例でいえば、店のレジが潤っても、売上のすべてを店長が占有し従業員にまわらなければ格差の拡大は止まらない。ここでも統合的に思考すれば、国債発行が即、世間のデフレの特効薬になるという単純さはありえないとわかる。肛門だけを見つめるなということだ。

計量的側面(経済)のみならず機能的側面(経世済民)を複眼的に見据え、統合を目指すのならば、経済政策のみならず、そこに連なるあらゆる経路をみなくてはならない。経世済民活動の装置としての新たな機関も必要かもしれないし、より機動的な税制といった法整備も必要かもしれない。複雑系においてはむしろ、安易に特効薬など期待するなということだ。手っ取り早くて楽な方法がないとみえる以上、平衡をとりつづける連動構造が必要なのは、人体とおなじである。

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