陰謀論とメディアリテラシー

陰謀論とメディアリテラシー

後に21世紀初頭には陰謀論が流行したといわれるのではないかと思うほど、陰謀論は今、花盛りである。それにしても、あちこちで論じられている時点で、すでにそれらは陰謀ではない。陰謀というものは、ひそかであるから陰謀なのであって、現在の陰謀論はゴシップの亜種として、メディアカテゴリのなかに一郭を築いた一ジャンルであろう。

陰謀論として挙がっているものの多くは、もはや人間個人の奢侈を超えて大膨張した「支配欲動」「マモニズム(拝金狂)」の類の運動、メカニズムであり、陽表的なるものとしてイノベーション、コマーシャリズム等があり、陰伏的なるものを陰謀とよんでいるにすぎない。陽表的には、たとえば、もはや過剰と余饒に沈滞したテクノロジーであったり、主として大手メディアによるデマ(デマゴギー、煽動的宣伝)であったり、職業的出演者を使って善意と社会貢献という塗料で糊塗した(児戯に等しい)表現諸々であり、陰伏的とはそれらの脈絡の逆理にあたるものである。

たとえば「がん保険」なるものは、陽表的には治療のための資金保障サービスだが、拠出された掛金の総量が損害への填補の総量を下回るなら、利益追求組織として存続不可能である。ここで単純な思考の持ち主は、では保険会社は、がんの罹患率が下がるほど保険会社の利鞘が拡大するのだから、観念としてがん患者数の縮小を望むはず、それは良き意志ではないかという。

しかし、実際にがんの効果的で安価な抑制・治療方法がみつかるなりして、罹患率を大幅に下げ、生存確率を大幅に上げ、がんという病が恐るるに足りぬ病へと縮退すれば、それは保険を掛けるモチベーションの低下、がんという病への恐れの減軽、つまり保険加入者の減少を招くだろう。 無論、論理としての陰伏面が存在するのはいうまでもない。つまり「がん保険」を商品とする企業の持続、あるいは拡大エネルギーの源泉は「がんへの恐れ」である。がんがいつまでも恐ろしい病であり続けることを望む。がんに対する恐れの拡大が、生命や資金の不安の拡大が、すなわち利益の拡大であり、真の欲求であるというのは自明であろう。

人気俳優が身振りや表情でもって愛の保険と「陽」を掲げ、その実、恐れの拡大「陰」に実体をおくという論理である。

善意というものは、えてして見かけ通りのものではなく、人類はふつう表向きの理由ほど立派ではない、利己的な動機で行動する――「もし地獄への道が善意で舗装されているとすれば、その理由の一つは、大抵の人が選ぶのがまさにそのような道だからだ」
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スティーブン・ガラード・ポスト/ウィキペディア

本丸は陰伏面にあるのだが、それをそのまま剥き出しにしたのでは、(浅薄であっても)善意に惹かれ、好むマスを誘導することは難しい。陰伏的なるものを陽表的なるものへと変換するのが「メディア」のもっとも大きな役割のひとつであろう。ゆえにメディアは「化かすもの」「欺くもの」として「悪魔的」と映ることもあるのだが、そこにあるのは「悪意」だと断罪してしまうのも考えものではないだろうか。彼らは力ずく、暴力的といったワースト(最悪、worst)ではないセカンドワーストな選択として、あからさまな暴力ではなく化かす、欺くのだ。そこには「悪魔的」といえど、最低限の「公」への配慮、自主性と選択の自由への尊重が欠片程度にはあると考え、私は「悪魔(diabolos)」と言い切ってしまうのもどうかと思い、「メディア(media)」との混成語としてメディアボロス(mediabolos)とよんでみることにする。

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内在する逆理や脈絡を読み解く能力のなさが陰謀を生み増長させる

陰謀などというものは、おどろおどろしいものではなく、シンプルな論理である。そこに内在する逆理や脈絡を読み解く能力が足りないと、深部が暗がりとなって「陰謀」と映るのだろうが、分かる者には分かる、ただの論理である。
「ああ、なるほど。醜悪でえげつない遣り口ではあるが、しかしまあ性懲りもなく、次から次へよく考えるものだ」
呆れることはあっても、叫ぶほどのことではない。

情報だのリテラシーだのといえば、エビデンス(証拠)を示せだの、信頼のおけるソース(源泉、出所)を示せだのかまびすしいが、それがたとえ大手メディアからのものであろうが著名な学者からのものであろうが、陽表面の真偽を追求したところで、その裏にある陰伏面にかんしては知る由もないのだから、詮無いことである。たとえばワクチンの有効性が98%などといわれても、その数字に(隠伏的に)受益者が関わっているのなら、藪の中の数字をみているにすぎないのだ。「数字は嘘をつきません」とは歯が浮くような台詞だ。「数字を扱う人間は嘘をつきまくる」ということこそ、大前提なのである。

特定の発信源からの情報がいともあっさり刻印され、以後終生にわたって機械的な反応となる刷り込み(imprinting)がいともあっさりできてしまう、そんな鳥のようなおつむの者たちを、できるだけ事を荒立てず、柵の中へと誘導するのがメディアボロス(mediabolos)なのであれば、悪魔とはいえ慈悲の欠片のある、まだましな悪魔ではないか。人間でありながら鳥でいることのほうが、はるかに下卑たさまではないかと思える。 それは単純な知的センスの著しい退歩であり、思慮分別の無能であり、つまるところそういう者を指してとよぶのであり、悪魔もにああだこうだ批評されたくはなかろうと思うのである。

最終的には自らの知的センス、思慮分別を信じるしかないのだから、であるならば常日頃から自らを研磨するような言葉を吐き、使うことに積極的になってはどうか。猫背でスマホにへばりつき、泡沫の情報に取り組む暇があるのなら、あらゆる物事との関係において自らのコンプリヘンション(総合的理解、comprehension)を自負できるだけのものに仕立て上げるべく知の運動をし、だらしのない知の体型(体系)をちょっとは見栄えするようなものにデザインしてはどうか。知識に取り組んでみてはどうか。でなければ、悪に対する正義を論じる知的資格すらないだろう。

真実がなにかなど、そんなことぐらい不羈独立の精神で、己で選び取れと言いたい。そんなことまでメディアに与えてもらおうなど、人生に対する怠慢の極みでしかない。そのような者は、せいぜいメディアボロス(mediabolos)の傀儡として偽りと欺きのなかを半睡状態で浮遊し、蜉蝣のごとき生に甘んじておればよいと私は思う。

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