感じる知性 Don't think, Feel!(考えるな、感じろ!)

住宅ローン完済年齢:平均73歳(という危険行為)はなぜ起こるのか

日本経済新聞が住宅金融支援機構のデータを調べたところ、2020年度の利用者が住宅ローンを完済する年齢は平均73歳だという。

73歳――。これを聞いて「ああ、そうなの」と平然とする人は、大きく2つに分けられるのではないか。一方は実際に支障なく完済する能力のある人。もう一方は「計算」という「空想」を根拠に完済できるはずだと思い込んでいる人。今回は後者に6,000ルーメンほどのスポットを当て、論じてみよう。

まず、世間一般の「計算」「計画」の類は、かなりの確率で「誤算」「愚計」を含んでいるとみていい。巨視的には歴史が、微視的にはライフデザイン等が、その誤謬、不確実性を物語る。それがビッグデータをかき集めた「計算」だろうが、AIを駆使した「計算」だろうが、そんなことはさして重要ではない。重要なのは「先のことなど分からない」ということだ。

私は新書以上に古書が好きで、見つけるとつい立ち止まって眺めてしまう。そこでいつも、未来予測にかんして書かれた本について、これほど価値が下落してしまうコンテンツもそうはない、と思う。書のなかの未来が現時となり、現時がそれを追い越した時、その本から得られるのは「先のことなど分からない」ということだけだ――未来予測コンテンツにおいて価値の下落を避けるには、ノストラダムスのような抽象的表現にとどめ、解釈に無限大の幅をもたせることである――。

「先のことが分かれば苦労はない」とは誰でも納得できそうな箴言だが、どういうわけか、住宅ローンのような大きな決断にかぎって「この計算・計画なら先々問題ない」と妙なクスリでも打たれたかのようにサインしてしまう。普段、会社の同僚と「最近の天気予報当たらないよなあ」などと話しているのに、どういうわけか35年先のことは当ててみせるという。さては、「気違い茄子」――チョウセンアサガオの異称。アトロピン等を含む――を野菜炒めにでもして大量に食ったのだろうか。否、当然そんなことはない。このことを説明するのに、安冨 歩氏の『生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却/NHKブックス、2008年』から手続的計算創発的計算という概念を私なりの解釈を交えつつ拝借したい。

手続的計算と創発的計算
私は、チューリング・マシン(すなわち、現在のコンピュータ)によって実現されるような計算を「手続的計算」と呼び、暗黙知の作動によって実現される計算を「創発的計算」と呼ぶ。
──
安冨 歩『生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却』NHKブックス、2008年。

手続的計算創発的計算という概念にもとづけば、モデルルームで「みなさん35年返済をご利用されますよ」という案内人の一言は手続的計算に属し、「うちもそうしましょうよ」という嫁の能天気な囁きも手続的計算、「じゃあ、これでいこうか」という亭主の断末魔も手続的計算のうちではないだろうか。つまり三者がマイクロソフト・エクセル(表計算ソフト)で出した答えに納得するかのごとき、計算機とおつむのみの手続的鼎談にて、一般的に生涯最大の買い物、家族の一大針路を決定するのだ。

普段、手続的計算を私はどのように感知するかというと、一言でいえば「胡散臭い」のである。「これがこうなって、次にこうなって、最後にあなたの夢は叶うというわけです!」という手続的コンテ(コンティニュイティ、continuity)は、脳みそひとつでは扱えない暗黙知的パラメーターが多分に脱落しているはずである。

私は、暗黙知の作動による創発的計算には、身体が決定的な役割を果たしており、それと脳との複雑な相互作用が関与していると推測している。その計算過程は、チューリング・マシンが実現しうる計算の範囲を大きく逸脱しているはずである。この部分を私は「創発的計算」と呼ぶ。
映画『燃えよドラゴン』でブルース・リーは、
「考えるんじゃない、感じるんだ!(Don't think, FEEL!)」
と言った。これを本書の言葉で解釈すれば、以下のようになる。
「手続的計算に頼るんじゃない、創発的計算を信じるんだ!」
──
安冨 歩『生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却』NHKブックス、2008年。
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脳知は「机上(明在系)」、
総合知は「現場(暗在系を含む)」

事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きているんだ!とは『踊る大捜査線 THE MOVIE』のなかの台詞だが、これと遠からずといったことが「脳知」と「総合知」にもいえるのではないか。

私たちが例外なく取り組む「人生」なるものは、とどのつまり「身体時間」のことだ。心臓が脈打ち、呼吸をし、複雑かつ必要な身体条件がそろって可能になる、身体の有する時間、そこから生まれるダイナミズムが「人生」という現象ではないか。我々は映画『ルパン三世 ルパンVS複製人間』の「マモー」のような、ガラスの中の溶液に浸かった脳ではない。身体をもった人間である。脳はその全体のうちの一器官である。

知識社会へ移行してからというもの、人は「脳」に異様な権威を与えているが、脳それのみでは目の前の醤油を取ってかけることもできない、全体性の一部としての能力しか持ち合わせていない。ホリスティックな視点において、脳に熱中した計算はさながら会議室の机上の計算であろう。それはいわば「明在系」にあり、突き出た氷山を数えているようなものである。 それにたいし、身体全体からの計算は「感じる(feel)」と表現される総合知であり、それはごった煮の現場、実態からの計算であり、いわば「暗在系(氷山の基底ともなる海)」を「感じつつ」得られる解である。会議室のお偉方にとって望ましいかどうかはともかく、そのほうがtrueにちかいものである――氷山の海面上の部分は海面下の約7分の1にすぎない――ことは、私の体験においてもすでに証明されている。
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たとえば、仕事内容、給与、福利厚生、休日、どれもが満額回答で得た値千金の職場、よし、これで人生基盤を得た、ローンや結婚も考えようかというその手続的計算とは裏腹に、実際に勤めはじめてみるや、隣席の同僚のワキガが規格外で耐えきれず、一ヶ月も経たず辞めてしまうようなことは、人生、日常茶飯事である。むしろそれとは正反対、額面上のいずれもに不満を抱きつつ臨んだ職場が、存外、居心地が良く、天職になるということもある。創発的計算とは事の中に入る計算であり、事の外から、ああだこうだ議論する手続的計算よりもはるかにtrueなのである。

たとえば「合気道」においても、この創発的計算の、論より証拠的な実効を垣間見ることができる。相手の過去の経歴から血液型、星座にいたるまで、すべて洗い浚いインプットして手続的計算をしたところで、合気はおろか護身術の欠片にもならないだろう。事に臨み、事の中に入って、感じなければ(創発的計算)、あのような動きはできないにちがいない。相手や状況をも総合し、自己意識の拡大ともいえる「事全体の中に身を置く」ことによって可能になるのではなかろうか。その延長線上には「宇宙即我」があるように思う。

「考えるな、感じろ!(Don't think, Feel!)」

映画『燃えよドラゴン』でのブルース・リーの名台詞考えるな、感じろ!(Don't think, Feel!)にはつづきがある。

月を指差すのと似たようなものだ。指に集中するんじゃない。(It is like a finger pointing a way to the moon. Don't concentrate on the finger.)

仮に月を指差し続ける時(住宅ローンのような長期的目標に向かう時)、指に集中していれば、時間の経過とともに指の先から月は消える。当たり前のことだが、月は移動しているからだ。冒頭の「住宅ローン完済年齢:平均73歳」についていえば、「最初に指差した位置に73歳まで月はじっとしているか」ということである。答えは「そんなことはありえない」というほかない。手続的計算は、手続上の月を目指す手続のための計算であって、フィクション(虚構)である。しかしそれをノンフィクション(事実)だとしてしまうことで「誤算」となる。

世間にあふれる手続的計算という「誤算」による被害。これらを少しでもましなものにするためには、創発的計算としての「感じる知性」を養うしかない。それは声高に叫ばれる「シミュレーション(模擬)」を信じ込んで安易に「イミテーション(まね、模倣)」しないことだ。いわゆる「よい子はマネしないでね」というやつの大人版、「マネしようったって、そうそう、うまくはいかないからね」である。

35年間、月を指差し続ける――。そこには大小数多の障壁が立ちはだかることは想像に難くない。「そんなこと、口で言うほど簡単にできるものか!」と思うなら、「その感じ」のほうがモデルルームという手続の場で納得したことより、おそらく、よりtrueなのである。

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