昭和95年(令和2年、西暦2020年)昭和は続くよどこまでも

はすでに相当程度 ではなくなっている

映画『ブレードランナー/1982年』は、個人的に好きな映画30選に入る作品だが、レプリカントとは『ブレードランナー』に出てくる「人造人間」のことで、そしてそれは「奴隷」である。

先日、『ブレードランナー/1982年』の続編『ブレードランナー2049/2017年』を観ていて思った。
「移民や派遣というのはレプリカントへの過渡的現象、技術次第でレプリカントに替わるのだろう。そうなれば映画のとおり、その擬人身売買は最大級の市場になり、メーカー、研究開発機関、軍需産業、人材サービス業、性産業といったさまざまな産業に圧倒的で新たな受益構造が林立し、現在よりさらにグロテスクな次代の資本主義的光景が広がるのだろう。人間というものはつくづく――」
つまりレプリカントとは労働者階級の未来であり抽象でもあり、そして現在はその過渡期の約半分ほどの地点ではなかろうか。『ブレードランナー』の劇中のレプリカントは「ネクサス6型」という「型」だが、現在の労働者や移民は、後に「ネクサス0(ゼロ)型」とよばれてもおかしくない、すでにその系譜の途上にあると考えさせられる。

具体的にそうイメージさせる設定がいくつかある。
たとえば、レプリカントは姿形は人間とまったく同じだが、労働力として扱われるにおいて非人間的きわまりない。主人である人間への反逆の可能性から、安全装置として4年の寿命年限を与えられ、また、労働力としての価値がなくなると「解任」として「抹殺」される。ちなみに映画のタイトルブレードランナーとは抹殺任務を専任する捜査官のことだ。

現在、労働力としての価値がなくなったからといってただちに「抹殺」されるようなことは考えにくいが、労働環境の効率化・流動化・不安定化にともない、労働力としての価値の維持はより困難に、短期的になり、ゆるやかな抹殺状態へといたる道は拡幅工事の真っ最中である。「4年の寿命年限」などは「派遣の3年ルール」や「定年概念の消失」などにうっすらとシンクロしているようにもみえる。人生100年時代などといってはいるが、その内実、さまざまなターム(期間、期限、term)は加速度的に短期化し、実際的には人生100年ハイマートロス(故郷喪失者)時代であろう。『ブレードランナー』のレプリカントにも故郷はない。

コマーシャリズム×テクノロジズムの狂奔は、労働者階級の人間性の軽視、廃絶に行き着く。コマーシャリズムが必要とするのは「カスタマー」と「労働力」であって、論理ではコマーシャリズムの駆動に関係のない人間性など煩雑さの源泉でしかない。

人間からコマーシャリズムに不要なものをすべて除去、漂白したものがレプリカントなのだ――ゆえに感情も記憶も操作、管理され、生殖能力ももたない――。
『ブレードランナー』の世界では、高度な遺伝子工学技術は「レプリカント」という「労働効率」に向けられた。これからの技術の進化・進歩のベクトルもまた、おそらく、それと大きくは違わないであろうとみる。なぜなら、労働力や移民の定義の本当は、現在すでに『ブレードランナー』の世界と酷似しているどころかまったく同じだからだ。

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人口減少の問題において、当たり前のように経済(GDP、労働人口、社会保障etc.)の側面しか議論されない、すでにレプリカントソサエティー

日本はとくに、人口減少、それも超少子高齢化という人口構成での人口減少が焦眉の問題となっているが、その問題提起、議論の焦点が「経済(GDP、労働人口、社会保障etc.)」がらみ、ほぼそれのみとなっていることに違和感をとなえる論説をあまりみかけない。つまり人口減少、超少子高齢化の問題は経済の問題だということで、概ね世間の合意に達している。たしかに金がらみの問題は最も普遍的であり現実的であり、シェアされるに値することはたしかだ。

しかし杞憂の内容が「わたしの年金はどうなるのか」とか「労働力人口の減少により社会保障費の増大が」とか、そういった金がらみの声で埋め尽くされるさまをみるに、これはもうすっかり「レプリカントソサエティー」として移行を終えつつあると思う。むしろ思考、感情の多様性の消失、画一化はレプリカント以上であるようにみえる。

つまり超少子高齢化という人口構成での人口減少がもたらす問題の多側面のなかには「家族、家庭、親子といった関係性の消失」があり、そこには原初的利他心、感情の涵養、未来にたいする責任感の度合いといった精神面における変化、頽廃も関係してくるのではないかという危惧。それは「徳治の消失」にもつながるのではないか。「我が身逃げ切ればすべてよし」とは、正直、子のいる人より子のいない私のほうが思い易いことは事実だ。逃げ切りバイアス死後は野となれ山となれバイアスとでもいおうか、個人の有する時間外の、未来への無責任。そうした思考・志向の比率の増大は、組織の劣化、社会の劣化、環境の劣化、人倫の劣化等、放射状にカオスの亀裂を走らせるであろうことは自明の理と思われる。

現在只今、あるいは個人の有する時間内において数量化可能な、バランスシートに表記可能な物事のみが価値とされ実体とされる気風、それは唯物社会といってさしつかえない。『ブレードランナー2049』で印象的だった、ロサンゼルス市警の警部補ジョシがレプリカントであるKに放った一言あなたは魂がなくても大丈夫――その言葉の意味は深く、重く、その響きのスケールは果てしない。

生命の徴(しるし)とは何なのか。
人間の徴とは何なのか。
己の徴とは何なのか。

『ブレードランナー2049』のなかで「奇跡」という言葉がでてくる。それはあるレプリカントの言葉である。レプリカントにとっての奇跡、すなわち真理の徴が何であったのかは、是非『ブレードランナー/1982年』と続編『ブレードランナー2049/2017年』を観て、自分なりの解釈を与えてみると、良い映画体験になると思う。この作品をただSF(サイエンス・フィクション)として楽しむのではなく、現在只今の現実とシンクロさせながら観ると、劇中の言葉は数倍に膨れ上がり、レプリカントが象徴するところは多重にして、きわめて人間自身のことであると考えさせられる。

生命の徴(しるし)とは何なのか。人間の徴とは何なのか。己の徴とは何なのか。カオスの交差点で立ち止まり、感じ、思い、考え、覚り、自分なりの答えを出す待ったなしの時。

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