「リターン・トゥ・ノーマル」の裏にある観念は、
「なかったことにすること」であり、「経験から学ばないこと」の加速

「リターン・トゥ・ノーマル」を目指す人を、しいて名づけて「ノーマロイド」と呼ぶとして、多くのノーマロイドはなにも「ノーマル」なるものに至上の意味と価値、幸福を見出し、それへの「リターン」を熱望しているのではないと思われる。単に精神的惰性系に住み続けることをだらりと望んでいるのであって、たとえそれが「苦痛」であっても、繰り返すうちにようやく鈍感になりおおせた「苦痛」に代わって、新しく鋭い「苦痛」がくることを拒み排斥しているだけではないか。その排斥運動を「リターン・トゥ・ノーマル」とよんでいるだけではないのか。いうなれば、しがない日々であっても、自身の体温のいきとどいた、くたびれた温い布団から出たくない。アラームが鳴っても、あるいは火の手がせまっていたとしても。つまり「リターン・トゥ・ノーマル」とはただの「惰性」であり、「なかったことにすること」であり、「経験から学ばないこと」であるならば、「リターン・トゥ・ノーマル」などと声高にいうのはひかえたい。

私が惰性、慣性をイナーシャ(inertia)という言葉で表すのは、それがときに人間や事実を異常なさま、変態的なさまへ捻じ曲げる化け物じみた力にみえるからであり、日本人の言語感覚からすると「イナーシャ」というのはどこか化け物の名前っぽい、うってつけの語感だからあえて使うのだが、原発事故の時も、コロナ禍においても、ノーマロイドはイナーシャに毎度のごとく丸呑みされる。それはイワシの群れが毎度のごとくカジキマグロに喰われるのと同じ、太陽系第三惑星・地球の日常的光景である。

コロナ禍は現在2020年10月時点において、データや死亡率を理由に、ノーマロイドたちが「存外、恐るるに足りず」とGo To ノーマルに流れつつあるが、実際に運良くその程度の「禍」で済んだとして、そのニアミスからまったく何も学ばない、教訓としないというのはイワシの頭であるといわざるをえない。たちが悪い喉元過ぎれば熱さを忘れるであり、形状記憶イワシ脳と名づけてみるというのはどうか。

予測不可能の危機にたいする予めの処方箋など存在しない。危機の只中にあって、巨細学ぶ意識と実践のみが、危機を未来において縮小・減殺する唯一の方法ではないだろうか。ひやっとする出来事から何も学ばない、危機を値千金の教材としない思考の流れの行き着く先はGo To ヘル(地獄、hell)だというのは世の通り相場であり、致死率が1%未満であっても、それにたいする思考と対策、経験とノウハウが、致死率30%の脅威にたいする知の基本構造となることを思えば、どんな小さな「禍」であっても演習価値のあるものだろう。先日、ある見知った飲食店がコロナ禍に対応してのことだろう、改築して小洒落たテイクアウト用の窓口を構えているのを見つけ、この殊勝な実践が、今後、同種の困難において、危機における耐力、アイデアを生むニューロンの拡張となって活きるのだろうと思った。

「経験から学ばないことの加速」が「頽廃の加速」となり、演習から真剣さが流失していくことのしっぺがえしが、いざ真剣勝負の「禍」において「瑕(か、欠点、欠陥)」となって表れ総崩れとなるというのもまた、勝負事の通り相場といったところだ。それはウイルスとの戦いにおいても然り、ということではないだろうか。

「人」をコマーシャリズムとしての「経済」の力車と見なしてのリターン・トゥ・アブノーマルGo Toキャンペーンによって、コロナ禍は「なかったこと」になる「キャンペーン大国」の行く道は、麻酔をかけて歩く茨の道かもしれない。そしてそれは少し、否、かなりアブノーマル(変態的)な嗜好かもしれないな。

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