急進的イノベーショナリズムは経済>人のイズム。
人間(生物)にとっての不可欠条件である恒常性と平衡をとる必要がある

仮想してみよう。加速度的に、陸続とイノベーションが起こりつづける未来だとして、そこに生物としての人間が親和できるものだろうか。たとえば、最低でも半年程度の習得期間を要するプログラミングスキルがあったとして、しかしイノベーションによってその言語体系が半年でデファクト・スタンダード(市場の実勢によって標準とみなされるもの)から外れるとなれば、プログラマーは花形稼業どころか、職業として、あるいは行為として意義喪失の憂き目に遭うのではないだろうか。

あるいは、2007年にアップルから発売された「初代iPhone」をマイルストーンと仮定すると、いわゆるスマホ・スタンダードは2020年現在まで10年以上のスパンを保ってはいるが、イノベーションがさらに加速すれば、スタンダードのシフトがさらに高速になる。そうなるとプラットフォームの大幅な変化、ちゃぶ台返し的なことが頻繁化する。今は液晶の高解像度化レースだが、これがホログラフィーになり、さらには脳に直接投影しようというような変化が短期的に起こるとしたらどうか。

あらゆる産業をイノベーショナリズムが蚕食し、社会・経済・技術が皿回しの皿の上にあるがごときかぎりなく不安定・不確実なものへ加速するなかで、社会の構成者として職業者として、経済活動の上に生を設計する者として、君は、生き延びることができるか?(永井一郎氏によるナレーション/機動戦士ガンダムの予告より)

イノベーショナリズムに導かれた自動症的ともいえるテクノロジズムの過剰な振る舞いは、技術がこの地球の表面で人間(生物)と同居し、文明社会あるいは地球環境の一部として組み込まれている以上、そこに問題を起こすのはいうまでもない。先述のように、社会全体として、あるいは地球環境と平衡をとるための施策とパラレルでなければ、テクノロジズムの独裁へと偏っていく。現在のテクノロジズムは複雑系を統合的にみる視点から外れ、極度に近視眼的であり単焦点化された視点である。血走った目をしたテクノマニアック(技術狂)に、少し落ち着けといいたくなるほどだ。

日本の、二千年を越える国家の持続性が、ここ百年足らずで破壊的なありさまを呈しているという、イノベーショナリズム(を含む革新主義的傾向)に舵を切ってからの傾向線をみれば、そこに大きな見落としがあり、レギュレーター(調節装置)が必要だと考えるのは、ごくシンプルなフィードバック論ではないだろうか。

生物(生活現象)というものは、人が思うよりはるかに精妙なバランス、精微な不可欠条件(必須的制約)からなる恒常性のなかに生きている。性急なイノベーショナリズムはあまりにも無生物(生活機能をもたないもの)的であり、有り体にいえば、やることが「雑」すぎるといわざるをえない。

イメージ
適正水温、水質、ファウナ(動物相)等、精妙なバランス、精微な不可欠条件(必須的制約)からなる恒常性のなかで生活現象を営むもの、それが生物というものである。そして我々人間も生物である。

人は組織に所属する以前に
この世界に生まれ落ち生きるものである

「社会」や「コミュニティ」といった「維持機関」を「組織」という「変革機関」に変えることを「進歩」とし、「組織」が「コミュニティ」を優越したものであると据え置くのが「イノベーショナリズム(革新主義)」であるならば、それは制度、慣習等の体系的放棄と新プロセスの絶え間ない反復運動を旨とすることであるから、生活現象という恒常性や維持性とは相容れない。

「組織」が「知識社会」の骨幹的役割を果たすかのようにいわれたとしても、「知識」が人にとって真に効果的資源となるためには、感情をも総合した知悉、強靭な価値となるには、花実同様、涵養と熟成の時間が必要であり、「情報」とよぼうが「知識」とよぼうが、イノベーショナリズムの多動症のなかで震顫しつづける「組織」から人の生(生活現象、恒常性)を貫き支える「知」など育まれるはずもない。AIが知の熟成時間を省略してくれるなどという発想それ自体がすでに知の多動症に陥っている。

「組織」によるイノベーションと「生物」による生活現象を両立させるためには、イノベーションの変化の大きさと方向性、生活現象の恒常性、双方のベクトルを平衡点に近づけつづける調整が必要ではないか。それをイノベーションの巡航速度(全体の要素を加味し最適とされる速度)とよんでもいい。そも生物は引っ切りなしの「革新」をもとめる現象ではなく、それに対応したものでもなく、その変化は恒常性のなかに適切かつ漸進的に起こることである。ライプニッツがいった、natura non facit saltum(自然は飛躍せず)ということの実正性を忘失してはならないということである。

「組織」による社会的貢献という皮をかぶったコマーシャリズムが生物(生活現象)に優先することが決定的となった現在、「組織」に生きることはサイボーグ化のことであり、「生物(人間)」として生きるということは「組織」に根差さない――といっても「組織」には根差すということを果たす土壌的性質がない――ことである、といっても過言ではない状況となった。

一旦は回帰論めいた極端とも思える方向へカウンターの舵を切る必要があると思えるほど、イノベーショナリズムは極端に、巨大に、暴虐になりすぎている。

大事なのは新しさより、生きいきしていることなのです
──
サティシュ・クマール

人間の本源性を軸に。
ポールシフトの時代

イノベーションにレギュレーターを取り付け、イノベーションの巡航速度(全体の要素を加味し最適とされる速度)の議論と定義と秩序が急務であろうと感じるも、見渡すかぎりの新しがり屋のマスマンに、現実にたいし批評も観照も何らの反応も起こさない寡占体の苗床と化したマスマンに、 もはや我関せず焉、失われた有機性、恒常性は、鯵の泳ぐ海にもとめ、芋を養育する土にもとめ、度が過ぎたイノベーションからのスパークにやられぬよう「くわばら、くわばら」と唱えてマスソーシャルディスタンスである。

202X、ポールシフトの時代になるであろうと考える。 私は有機性と恒常性を取り戻したバランスを目指す。自然の運営を模範とし超越の示唆とする。 これからのフロンティアとは、イノベーショナリズムにいわば狂奔させられた技術を正位置へ戻してやり、マスマン(mass-man)をやめてヒューマン(human)へ戻り、人間の本源性を軸にしたインテグリティ(統合性・一貫性・誠実性)によってデザインされる場、時間のことではないか。その運動、活動が、私の人間にたいするアンビヴァレンス(愛憎併存感情)の落としどころでありアンバランスのなかで平衡を目指す気概の拠り所になるかもしれない、そこに私の残りの人生の醍醐味があるかもしれない、そんな直感が少し、ある。

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