イノベーショナリズムという名の阿片

イノベーショナリズムという名の阿片

「これからはAIの時代だ」「DX(デジタルトランスフォーメーション)の波に乗り遅れるな」「新しいiPhone最高」と共鳴しながら、律儀にAIを拝し、DXの波に乗り、最新のiPhoneを握りしめながら、その顛末としての漂泊の生を無意識的不本意に、うつむいてスクリーンを眺めながら歩くその行進の先にあるのは、SF(サイエンス・フィクション)によくあるような、技術によって可能力が増大した自己満悦的未来ではなく、虚無的行進の延長であろうことは、およそ「イノベーション(革新)」なるものが労働節約的技術革新のことであり、それはつまり労働分配率の低下を推し進める技術であり、社会という複雑系が技術という一要素に偏って駆動すれば歪みが生じるのは必然的であろうことから、現実的な予測ではないだろうか。

現状の全体を俯瞰すれば、一部の人間が「イノベーション」に諸手を挙げて飛びつくことには納得がいくが、圧倒的大多数が広告やCMをトレースして飛びついているさまにはペーソスすら感じる。イノベーションに適応することが時代の波に乗るということだと一見もっともらしいアド(広告、advertisement)に背中を押されて行進に加わるも、その「波」はごく短期的で、波に乗りつづけようとする緊張状態と浮動的行為が巨大寡占体へエネルギーを供給しつづける。自ら落ち着けない社会の加速と拡大に加担するということが今や自動症となり人格の域にすら達しているのが圧倒的大多数、マスマン(mass-man)であろうと思われる。

技術という歯車のみが異常に肥大しフォーカスされ、社会全体として平衡をとるための他の歯車がうまく連動せず機能せず、結果、定位なくへんてこな挙動をしているのが現在の「イノベーショナリズム(革新主義)」の景色ではないだろうか。そしてそのへんてこな挙動で社会という筐体から振り落とされたり振り落とされかねない不安定を強いられているのは便利さと新しいものには目がないマスマンであるというから、「イノベーション」に群がるマスにペーソスをみるのは自然なことであろうと思う。

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冥王星まで飛んだNASAの探査機「ニューホライズンズ」よりはるかに高性能のCPUを搭載した最新のスマホで大多数派であるところのマスのやることといえば、せいぜい戯事に笑い興ずることや、差別化のアイデアの枯渇をエロで埋め合わせたようなゲームやネコの動画で時間を浪費すること、広告に反応して買い物をすることぐらいであろう。今後も行進の方向に大きな変化はないと思われる。

新しいiPhoneの新しい機能や処理速度、技術の向上の分だけ、市場(しじょう)とよばれる仮想現実におけるマスマンの価値が下落した可能性の側面をみる者は意外に少ない。むしろカメラ性能の向上を喜んでいる。

「格差」や「貧困」、「不確実性」の増大、全人類の「マス・サイボーグ(情報被制御集合体)化」や「虚無感」の蔓延の根っこのひとつに「イノベーション」を過剰に拝するカルトといってもいい「イノベーショナリズム」があることを、まさか知らずにイノベーショナリズム行進曲を奏し盲進する隊列に与しているのではあるまいなと思いつつ、イノベーショナリズムという名の阿片をやりすぎて中毒となったジャンキー、またの名を「サイボーグ(情報に制御される者)」を眺めながら黙考することは、くだらぬ動画やCMに浪費する時間よりはいくらか有意義であると感じる。

とどのつまり、流失しつづける人間の有機性(精神性や恒常性)に人は茫漠たる不安と鬱を覚え、寄辺をもとめてみるものの、それらはかつてやれトレンドだの改革だのと騒ぎ立てながら破壊し尽くしてしまい見る影もなし、そこへ革新を是とする商業主義がそれに応えるかたちで間断なく新奇な技術、(短期的視野からの)利便性の向上、快楽の提供をうたったコモディティ(共通必需品)を共通必需となるよう社会のインフラストラクチャー(下部構造)とパラレルでイノベーションを仕掛けるのだが、この運動にたいし 合理の前提は合理からはやってこないという大前提を脳裡から消去し尽くした、また数値化・形式化の困難な内容はナンセンスだと三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)の態度を決め込んだ括弧付きの合理主義者(マスマン)たちが「革新」こそ「合理」であると信じて疑わないため、さらに人間のエッセンス(本質、精髄、essence)が流失しつづけるという、それはそれは見惚れるほど見事な終末の瀑布のようである。絶景かな、絶景かな。

そこから想像されることのひとつは、人間性と労働分配率の低下等の歪みがいよいよ限界に達し、イノベーショナリズムが先導するテクノクラシーへの過剰な反動として有機的人間性の復興を唱えるルネサンスのようなものの出現か、もしくはそのままサイボーグ化の道をひた走り、やがてウイルスの定義にみるような、はたして人は生物なのかどうかについて議論を要するほどのデカダンスへと落ち込んでいくか。

いずれにせよ穏やかな道とはいかず、イノベーショナリズムという名の阿片中毒から離脱するのに安楽な道はないであろうと想像する。