デジタルと相性がよい資本人気主義

現在の「資本人気主義」の構造は、金の世界を牛耳る総帥がマスコミ(mass-communication)に「さくら」役を命じ、「さくら」は実体を必要としない「人気(雰囲気)」を工作し、それに踊らされたマスが大量という数で価値化する、つまり「資本人気主義」とはマスの妄動が前提的に組み込まれた経済体制である。そのような体制における「デジタル」というのはその技術的側面のみならず体制におけるプロトコル(外交儀礼)としての側面にも重心をおく。「マス(大量)」と「デジタル」はじつに相性がよい。「デジタル化」が「進歩・進化・革新」などといったワードとあたかも同義に扱われている(煙に巻くともいう)ことは、メディアをみればものの数分で確認できるほどだ。デジタル化の意味と価値を下支えしているのはいうまでもなく「マスクラシー」である。

「デジタル」は膨大な「マスクラシー」を管理するにはうってつけであり、デジタルへのパラダイム(範型)シフト(移行、転換)をイノベーション(革新)だ、デジタルトランスフォーメーション(デジタル進歩主義)だと諸手を挙げて無条件礼賛している徒輩は、マモニズムの総帥からみればAAA(トリプルエー)の奴隷であり、マスコミの「さくら」役からすれば自分たちの仕事を最大限に評価してくれるこれまたAAAの鴨葱であり、それはすなわち「資本人気主義」の「労働者階級」としてAAAということでもある。

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そんな資本人気主義で生きるということ

そんな「資本人気主義」で稼ぐにはどうすればよいかといえば、すでに述べた「人気」と「デジタル」を釣餌と釣具、キーコンセプトとして、「マス」――マス(mass)と魚の鱒(ます)を掛けたのではない――の群がる川に投げ込めばよいということになる。現代もっとも「人気」の釣餌は「バラエティー」である。その内訳は以下のようなものだ。

  • コメディ
  • グルメ
  • 健康・美容
  • 儲け話
  • エロ

誰彼なしに学校教育で因数分解やら微分積分を教えることに、もはや一体なんの意味があるのかと問いたい。五教科といわれる国語、社会、数学、理科、英語だが、SNSやらチャットやらで、たった数行の母国語すら満足に扱えない有様を呈し、社会といえばコマーシャリズムとスキャンダリズムにほぼすべて塗りつぶされ、数学においてはその数理を扱う以前に空気(雰囲気)やら構造、権威が立ち塞がる。理科においても同じだ。英語はといえば、社内公用語を英語にしようがTOEICやTOEFLでハイスコアを叩き出そうが、その達者な英語の使い道は、より拡大されたグローバル奴隷になるためといってほぼさしつかえない。

「資本人気主義」の必須五教科ともいえるコメディ、グルメ、健康・美容、儲け話、エロの英才教育を施したほうがはるかに稼ぐ力になるだろう。いつの世も大して変わりはしない、人の世の通り相場ではあるものの、その極点、どんづまりが「資本人気主義」の実態である。

人間が「死の宿命」を前提にした生の意味と価値を求める、その場としての文明社会であるはずが、徹底的に生を貶める三悪趣(地獄道・餓鬼道・畜生道)の三原色で塗り固められたキ印の場で生の意味と価値を求めよといわれても、どだい無理な話である。そんな「資本人気主義」でどうにかして生き抜こうとするなら、それこそ「ソーシャルディスタンス」、そのような社会には深入りせず、ほどほどに距離をとってお付き合いするしかないと私は思う。

騒擾に沈むマスクラシー

「資本人気主義」へと転落した「マスクラシー」は(おそらくもう二度と)高みに返り咲くことはないであろう。凡俗の圧倒的物量とそこからのイナーシャに抗することなど、もはや覆載を超えて在る諸天、諸神に祈るしかない。金の世界を牛耳る総帥ですら、この圧倒的物量たる「マス」の圧倒的運動エネルギーを熟知しているからこそ、それを都合よくコントロールするため、「マス」が自縄自縛を自己再生産しつづけるよう、綿密なシステムを作り上げたのだ。まことに残念ながら、凡俗の土石流たる「マスクラシー」には、その巨躯を自身で管理することも統治する能力もない(現にできたためしがない)。支配されるか、騒擾に沈み自己崩壊するかしかないような銀河の劣等のごとき現象、それが「マスクラシー」であろうと、ため息まじりに認めざるをえない。

「民」という漢語には「精神的に盲目となった人」という意味があると知ると同時に、言葉は個人の生をはるかに超えた時効の証明であることを思えば、「マスクラシー」の行く先は、スマホに釘付けになり精神的にも盲目となった前方不注意の騒擾の末、自らの愚かさに激突し四散するであろうとみるのが冷静な推測といったものではないだろうか。

「騒擾」、すなわち塊となった凡俗(マス)のなかでジャーゴン(珍紛漢な隠語めいた用語)がカラスの騒ぎのごとく飛び交うのである。「神」という言葉を安易にフレーワード(称賛語)として流通させたり、「妊活」などという安易な造語で己が生殖活動をことさらに――そんな事は秘事(神秘な事柄)として粛々と臨めばよいものを――公の場にのせたりといったそれらすべてである。そのようにして「マス」はあらゆる物事を自ら「大量」のなかに投げ込むことで、茶化し、散逸させながら何事をも俗悪化し、それが自身をゆるやかに貶下し劣化させていることに気づかず、やがて理非の判断もできぬ魯鈍な日々のなかに枯れていくのである。

圧倒的大多数の「マス」が信奉してやまない「人気(popularity)」がマモニズム(拝金狂)となりはてた「資本主義(capitalism)」と交差、融合した時点がその「X」のさまのごとく人倫の終末「Xデー」であったのかもしれないと思われるほど、「資本人気主義(capital-popularism)」というものは下品でキ印あつかいするのに躊躇しない体制であり思潮だと思うのは、「皆さんiPhoneを買われますよ」と勧められると「じゃあガラケーをください」というようなひねくれ者であり「資本人気主義」のメインストリートからはずれた私だけだろうか。

所詮、人間風情のやること、最後はカラスと変わらぬ「馬鹿騒ぎ」なら、日没をもってお開きにしてはどうかと思うことしきりである。

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