資本人気主義 騒擾に沈むマスクラシーという終末形態

キャピタリズム×ポピュラリズム
資本人気主義

昔、フェティシズム(物神崇拝)とよんでもいいだろう、金品に全身全霊を捧げたような人物が「現代は資本主義だからな」と豪語しているのをみて、彼のなかで「資本主義」とはどういった定義なのだろうかと思ったことがある。訊けばおそらく「金がすべてという主義だよ」とか、あるいは「共産主義にたいする資本主義だよ」とでも答えたのだろうと思う。そこであらためて辞書を引くとこうある。

しほん-しゅぎ【資本主義】(capitalism)
(前略)生産手段を所有する資本家階級が、自己の労働力以外に売るものをもたない労働者階級から労働力を商品として買い、それを使用して生産した剰余価値を利潤として手に入れる経済体制。
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広辞苑 第六版

この定義を読んで思いつく明らかな事実がいくつかあるが、ひとつは定義はそのままに、実態、形態は蒸気機関の時代と今ではまったくといっていいほど違うということだ。「自己の労働力以外に売るものをもたない」のが「労働者階級」であるという。蒸気機関の時代であれば、汗水たらして石炭を焼べる「労(働)力」ぐらいしか「売るもの」がなかった「労働者階級」であったとして、では現在はどうか。景色のなかの人間の8割、9割がスマホに釘付けの時代、「売るもの」の中身ががらりと変わった。それはクスリで捕まった過去でもいい、不倫でバッシングされた過去でもいい、涙の謝罪会見の過去でもいい、もはや恥も外聞もない、なんでも「売るもの」にすればいい、なんでも「資本(過去の生産物、剰余価値)」にしてしまえ、とにかく金になりゃそれでいいというのが現在の「労働者階級」といった有様である。

労働者階級が自己の労働力以外に売るものをようやくみつけた、しかしそれは資本家階級から逃れたことにはならず、より複雑で巨大な資本と社会の紊乱に盲従するという、新たな、より複雑な、多重の被支配の図式にすぎず、果てなき烏滸の沙汰に身を投じるという、致誠と、知性の犠牲と引き換えの独立にすぎない。

眺め入れば、徳治の一片の欠片もないマモニズム(拝金狂)が支配するパンデモニウム(万魔殿)、それが現在の「資本主義」であり、おそらく「資本主義の最終形態」である。そしてそれを強いて名づけて「資本人気主義(しほんじんきしゅぎ、キャピタル・ポピュラリズム)」とよぶことにする。

人気という集団の固定観念

群集、大衆、畜群ともよばれる「マス(塊、大量、mass)」の動きを司るもののひとつは「人気」である。イワシやムクドリの群れのように蠢くその運動原理のひとつは「人気」であり、「人気(あるもの)に蝟集する」その本質は「(軽佻浮薄な)共有意識」であり「マスのなかで一往の反応・理解・承認を得られる」「多数側に属する安心感、有利」といった「固定観念」であろうと思われる。良き価値、良き意味をもつ実体から発生する素直な「人気」もあるが、「資本人気主義」において強調される、大勢としての「人気」はむしろ実体を伴わない「観念」であるというのは、「さくら(客のふりをして他の客の購買心をそそる者)」や「いいね!(高評価、承認)」拾集に奔走するさまに表れる。つまり雰囲気としての「人気」である。それはさながらカラスが「カア」と鳴くか「cro(スペイン語)」と鳴くか、どちらの鳴き方が人気(大勢)か耳をそばだて窺って鳴き方を決めるというような「大勢追従の気風」であって、知性の篩(ふるい)にかけられ選抜されるという手続きの末の「人気」とはまったくもって異なるものであるから、そんなあてにならない「人気」になどついていく気がしないのである。

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