昭和95年(令和2年、西暦2020年)昭和は続くよどこまでも

ただいま(実質)昭和95年。
昭和は続くよどこまでも

「俺たちの昭和は終わらない」――と右肩上がりの調子のなかで言おうものならそれなりに恰好もつくが、右肩下がりの落ち目で言おうものなら、それは「断末魔」とそしられてもしようがない。

私のみるかぎり、右肩下がり、それもモトクロス競技を彷彿させる急勾配を前のめりで下っていっている現在の日本は、ナチスの科学は世界一チイイイイ!!と叫びながら人知れず幕を閉じたルドル・フォン・シュトロハイム(ジョジョの奇妙な冒険、第二部の登場人物 )のようになりはしないか。凋落のなかで叫ばれる「日本スゴイ!!」とシュトロハイムの「世界一チイイイイ!!」に不安のシンクロを感じるのは、おそらく私だけではないはずだ。

これまで「岐路」というべき数々の出来事において、ことごとくといって大袈裟ではない、陰雲垂れこめる方へ舵を切ってきた凋落曲線上の日本は、新型コロナウイルスによる感染症災害においてもブレることなく、残念ながら、不安がほぼまちがいなく杞憂ではないことを、その不安の確度の高さたるや相当なものであろうことを炙り出してくれた。

感染症災害の対策として取り入れられた「リモートワーク」も、リモート(遠隔、remote)の利点よりもむしろ昭和ルールをリブート(再起動、reboot)してしまったようだ。それも冷笑を買う滑稽として。「在宅でもスーツを着ろ」「Zoomは上司より先に退出するな」「役職者は大きく表示しろ」など、ネタかと思わせるような記事を目にする度に、これらはおそらくネタではない事実であろうし、それも氷山の一角にすぎないであろうことは、昭和95年のなかでサラリーマンを経験した私には容易に想像がつくことだ。

昭和分裂病――
集団依存と集団不信

人の集団が堕する速度と程度というのは想像を絶するもので、個人が堕するレベルを、阿呆さ莫迦さのK点を軽く大きく越えていく。個人がそれに気づいたとしても、その巨大過ぎるイナーシャ(慣性、惰性、inertia)はもう誰にも止められず、あとは自動的に、想像を絶する深い闇へと堕ちていく。

たとえば、「清潔なトイレ」というものは、自分専用であればそれを実現し維持することは容易い。しかし、これが公衆トイレとなると、100m先の自動販売機のコイン投入口にコインを投げ入れるがごとくケタ違いに難度が高くなる。私はかつてある公衆トイレで、一体どういう使い方をすればこんな見苦しいことになるのか、はたして用を足したのは人間なのか、それとも悪鬼、悪霊の類なのか、奇想天外な汚れっぷりのトイレに出くわしたことがあるが、その時に思ったものだ。「人は集団になると、それはもう単に人の集まりなどではない、何かまったく別のバケモノめいたものになるものだ」と。そして哀しいかな、集団が善き価値、善き現象の背景としてあることはきわめて稀である。

思えば「昭和」というのは複雑な時代だった。「集団」による類ない成功と敗戦が同居する、二律背反性をそこにみる。現在の騒擾を解剖すると、その背反性、矛盾が深く関わっているように思う。よくいわれる「同調圧力」というものは、集団への信頼と依存と、それはもはや価値なしとするアンチテーゼが絶妙なまでに折半された、「昭和の歴史」に裏打されたものではないだろうか。「集団」の甘味として「皆がそうしているから安心」「ひとり(ぼっち)の悲観」という集団への帰属心をあらわにしつつ、「集団」の苦味としての「不自由性」「個人であることの主張」を同時に唱える。二者選一の原理などどこ吹く風の、反立の狭間で棒立ちになったような、分裂病めいたその様態は、個人、集団問わず精神の岩盤層にまで根を張り、DNAの二重螺旋にまで食い込んでいるようなありさまだ。「昭和」を経験していない若者でさえもそのような様態がみられることから、これら「昭和システム」からの「昭和カスタム(慣習、custom)」の本質に分裂性があり、その裂け目から逃れるべく、防衛機制として、偽の統一として「ジコギマン(自己欺瞞)」が立ち現れるのではないか。

日本人の集団心理には、列島でガラパゴス的に醸成されたものがあると感じるが、その心理の骨格はかつての「村社会」のものではなく、もしかすると「昭和」にあるのかもしれない。皆が一丸となって欧米列強を目指し、昇り、そして一丸となって日本史上最大の敗北を喫した「昭和」。かつての「一丸」は引き裂かれ、「同調と圧力」という葛藤となり、「同調は安心、でも、同調は苦しい」という分裂的な二重性をコモンセンス(常識、良識)というメッキで糊塗し、その二重性を都合よく使い分けてきたのだ。ある時はメッキの誤魔化しを「建前」とし、ある時はメッキの奥にある地肌「本音」を叫ぶ。この捻れた性癖が憲法における自衛隊の定義、解釈をはじめ、その他この他さまざまに表出しているのではないか。その根底にあるものは、おそらく「ジコギマン(自己欺瞞)」であろう。日本は「サラリーマン社会」である前に「ジコギマン社会」であるのかもしれない。

昭和16年・真珠湾攻撃、昭和20年・敗戦、そして現在、実質的には昭和95年(令和2年、西暦2020年)とよべなくもない「昭和100年時代」というのは自己欺瞞が常態・常識化し、実体的には自律性が破壊的に障害された時代という側面もあるように思える。

100年間の――それを越えてさらなる延長の可能性も濃厚な――自律神経失調症のなかで、「俺たちの昭和は終わらない」ではなく「俺たちは昭和を終えられない」であり、「俺たちの昭和を誰か止めてくれ」というのが、本当のところの(悲痛な)集合意識の叫びなのかもしれない。

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昭和分裂病――
集合知と集合痴

ところで、「ソーシャルディスタンス」とは言い得て妙で、阿呆さ莫迦さの極点、畜群社会の巨大なイナーシャが「ソーシャル」であるとするならば、そんな「ソーシャル」とは正気を保つことが可能な程度に、各人適度な距離をとることが望ましい、というのであれば、感染症対策の枠を越えた、なかなか見事な指摘、標語だと思う。

私は「集合知」なるものに甚だ懐疑的で、むしろ「集合痴」なるものに現実をみている。アレクシス・ド・トクヴィルは、単純な知性平等主義に懐疑的だったと解釈するが、私もこの天才的人物の意見に諸手を挙げて賛成する。「集合知」などというものは、一知半解の者たちでもインスタントに三人寄れば文殊の智慧になるという誤解がほとんどだ。似非錬金術のキャッチコピーの域を出ないそんな「集合知」などというものは、「雰囲気」を「ふいんき」と発音してはばからない者と同じ、「集合痴」を「集合知」と誤解しているにすぎない。現に事実としてあるものの大半は「集合痴」であり、話を戻すと、昭和の残映に集いし今は分裂病に蝕まれる「集合痴」からなる集団は、平家の敗残兵と運命を共にするであろうと予見する。

昭和に機能した「集合知」は、今は発揮もされず涵養もされない構造であり時代であると認識しなければならないだろう。「集合知」などは、それこそAIに任せればいい。痴態を演ずるにとどまる「集合」など「烏合」にすぎず、「集合」を「知」として機能させる伝統(時効によって証明された知恵、平衡感覚)の破壊こそが進取の気性であるとして(平成はとくに)率先して行ってきたのだから、現在只今の「集合痴」は当然の帰結である。

ディレッタンティズムとしての昭和

ここまで、私はなにも「昭和」という時代を非難しているのではない。私も昭和生まれだ。生まれた時代にはそれなりに愛着もある。そして昭和には優れた側面もあった。集団的なさまざまなことが時代にマッチし、適したスタイルであったし、優れたエンジンタイプであったことは史実が語る。しかし「優れている」という価値は不変ではないし絶対的価値でもない。いつ、どこで、なににたいして、どのように優れているのかという立体的な価値である以上、条件、状況により負価値にも転ずる。「昭和」という黄ばんだ座布団に100年も――加速度的に不確実性が増しているにもかかわらず!――あぐらをかいていることは、座して死を待つ意思表示と捉えて相違ない。

もういいかげん「昭和」というものを、古き良きアンティークとして、ディレッタントに好事(こうず)として扱うべきであろうと思う。バロック風北欧風などと同じように、愛すべき様式のひとつとして昭和風を扱い、かつてのひとつの時代への愛着と賛美を現実のなかに平衡感覚をもって取り込む。復古調として黒電話型の筐体に量子コンピューターや窒化ガリウムテクノロジーを詰め込むもよし、己が好事として脳内の歓びとして、楽しめばよいのだ。現時のものとしてとりちがえるから問題が生じる。それは単に時代錯誤であろう。

「俺たちの昭和は夢になった。いい夢をありがとう」――と別れを告げられてこそ、大人というものではないだろうか。ひとつの過去へ、時代へ、潔く花を手向けることもできぬほど、未練たらしい餓鬼になったのでは、「俺たちに明日はない」のである。

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