メカ音痴が最悪の─音痴である理由

メカ(ニズム)音痴は現代文明社会における 知的ヒエラルキーの最底辺になる

まずはじめに、ここでいう「メカ」の意は、機械装置の「メカ」ではなく、仕掛け、機構、仕組み、からくりといった「メカニズム」の「メカ」である。「機序」といってもいい。それにたいする「音痴」は、他のさまざまな「─音痴」のなかでも、もっともリスキーなものであるといえるだろう。なぜなら、社会から個人の生活の細部にいたるまで、現代文明社会でもっとも影響力をもつものといえば、いまや地球を掌握した「メカニズム」であり、君主のような「点」ではなく、境界も質量ももたぬ大気のような特定不能な「メカニズム」が支配するのが現在この世の状況であるから、自らの人生のはじまりからおわりまで逃れえない支配と影響を受けつづける「それ」について「音痴」であるというのは致命的であろうと思う。 「それ」をしいて名づけてここではメカとよぶことにする。「メカ音痴」とは、そのような得体のしれないものに無知であるばかりか、自らその顎に飛び込んでいくような局面もあると知れば、それはもう絶望的とか狂気的だといってもまったく過言ではないと私は思う。

このメカは善悪のような単純な軸で計れるものではなく、いうなれば結果的なエネルギーのうねりのようなものだろう。陰謀論などのようなものは、そこに後づけの善悪の基準、感情の解釈をもちこんだもので、メカはただ運動をつづけるもの、蠢くものにすぎない。それはミミズやゴカイなどのような「蠕虫(ぜんちゅう)」にちかい。その「生態」を知り、対応できることが、ここでいう「メカ音痴」からの脱却ということになる。私たちは巨大きわまりないミミズかゴカイかわからぬ蠢くものの上で生きているようなものだろう。

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印象や感情はメカにたいして大きな意味をもたない

たとえば「アンチウイルスソフト」を提供する企業がある。そして事業の粗利のすべてを「アンチウイルスソフト」の売上から得ているとしよう。その企業の広告に「このソフト一回の購入で、コンピューターウイルスのすべてを未来永劫、撲滅できます!(追加料金一切なし!)」と謳ったCMがあったとしよう。それを見て「すごいな。一度買えば、二度とウイルスに悩まされることがないのか!」と感心し、その商品を買うとしたら、その行動が「メカ音痴」ということである。キャッチコピーに「印象」と「感情」で反応し、「メカニズム」への洞察がすっぽり抜け落ちてしまっている。

ここで視界に「機序」を含めれば、みえてくるものはまったく異なるものであるはずだ。粗利のすべてを「アンチウイルスソフト」から得ている企業にとって、「ウイルス」が飯の種であることはいうまでもない。その飯の種をこの地上から永遠に根絶してしまうということは、売上の消滅を意味する。つまり自滅行為にほかならない。ボランティアや無償の活動も世の中にはあるが、一般的にいって人が、企業が、国が、慈善のみで動くわけなどないのは、善悪の基準ではなく「機序」である。

そう考えるなら、先のアンチウイルスソフトのメーカーのキャッチコピーはきわめて真実性に乏しいといわざるをえない。ではより真実性の高い、信用できるキャッチコピーはどのようなものになるか。それはたとえば「世界のコンピューターウイルスの99.99%を開発・製造している当社が作った、ウイルス検出率99.99%のソフト」などのほうが私なら購買意欲をそそられる。このほうがまだ論理的なメカニズムの整合性があるからだ。それにたいして「マッチポンプ」だの「詐欺」だのいいたい気持ちはわかるが、その「印象」と「感情」に「機序」という視点も加えなければ、現代文明社会では死ぬまで騙され、奪われつづけることになるだろう。こうしたメカニズムの織りなす光景に、単純な善悪が入り込む余地はたかが知れている。主たる大部分は「機序」によってもぐもぐと動く、メカの蠢きにすぎない。ミミズにたいして、気持ち悪いだとか触りたくないだとかいった「印象」と「感情」よりも、ミミズが何でできていて、何を食い、どのように動き、どこへ向かうのかといった「機序」を知ることのほうが、気持ち悪いとか触りたくないミミズに対応するのに役立つ知識であるといえばわかりやすいだろうか。