システム色に染まる人間と人間関係

およそ人間関係というものは、時代背景や文化、法や習俗に左右され育まれるものであって、それらと無縁の人間関係などはほぼありえないといっていい。そも、それらに取り込まれてはじめて機能するようなものであり、そのフレームワーク(あらかじめの構造・あらまし、framework)のなかで個人の自由意思や感性が持ち込み可能なゾーンにおいて、いくらか個性的表現や味付けがなされる程度の、選べぬ大地に張られる根のようなものが人間関係というものだろう。そして根である以上、養分豊かな大地にあっては逞しい根を張り、貧相な大地ではか細い根となる。

文明の冬の現在、荒涼と渇ききった大地に張る根の多くは、吹けば飛ぶようなか細い根である。私はこの貧相な根の上に咲く貧相な草花たちの貧相な競争と戦いに飽腹し、呆れ疲れ、現世から半ば浮遊し、半隠者として生きる風狂の道を選んだわけだが、世間は世代を越えて同じ三文芝居を見続けているというから、もはやこの三文芝居もわかるやつにはわかる立派なジャンルのひとつであることは認めることにした。

その三文芝居の内容は、リロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)の有名なたとえ奴隷は奴隷の境遇に慣れすぎると自分の足を繋いでいる鎖の自慢をはじめるといった主題からブレることなく、文明の冬を生きる観客はどういうわけか、このマゾヒスティックな芝居のヒーロー、ヒロインに心惹かれ、我こそはと鎖に磨きをかける。かつての「上士と郷士」、現在は「正社員と非正規」、先は番号で区別するような世間になっていくのかもしれないが、おそらくそこに『アルカトラズからの脱出(Escape From Alcatraz)』のクリント・イーストウッド演じるフランク・モリスのような人物は生まれてこないことだろう。なにしろプライドは「鎖」にあるのであって、その人自身でも精神でも知性でもないからだ。大切な「鎖」を失うような、脱獄などとんでもない話であろう。

この先、システムは増えた地球人口から人類の定義を大衆(mass)から消費する家畜(livestock)へと加速的に変え、その扱いは「人間性」をさらに希釈しコストを下げ(コスパを上げ)、コマーシャリズム(営利主義・商業主義、commercialism)が惑星地球のイデオロギーとなっていくさまは容易に想像がつく。そのような大地に蔓延る根はどれもひょろひょろのオポチュニズム(日和見主義・御都合主義、opportunism)にプログラミングされたオートマタのようなものにすぎず、もはや「人間関係」とよぶことすらもあやしい「サイボーグ(情報被制御体)の関係」であろうと私は思う。

もはや人とみなすには無理があるマス(塊)からの人気では、私は幸福もそれに似たものすらも感じられず、追い求めるに値しない。なぜというに、人気は今やコマーシャリズムの手段となり果てたからである。「俗受け」が中位かその下方を漂いながら餌をかき集める行為にひとしいことを、コマーシャリズムが証明してしまったのでは、もはやそのような児戯めいたことに夢中になどなれない。私は生きるということにおいて決断をせまられることはよしとしても、犠牲はせまられたくないのである。

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いつ明けるともわからぬ文明の冬には春を待たず、
自分の冬を描く

文明の冬の寒さは、技術も人間も、知性も感情も停滞させ鈍化させるようなところがあることはもうよくわかった。ここからは、人間の作り出した、天然から剥離したこの異様な季節、仮想冬をどう生き、意味と価値の凍死を免れるかだが、そのサバイバルの初手は、自身の「言葉」の、「観念」の「再定義」からだと考える。誤った言葉の定義、観念の定義が書かれてある辞書をもとに訳される物語が誤ったものになることは自明である。

「偽の冬」に生きるほんとうの自分の物語を書くために言葉と観念の再定義をするとして、具体的なその改訂作業の内容はどんなものだろう。たとえば「自身で証明できない定義(ドグマ)の軽信をやめる」ということがある。私は世間が「卑しい」と「定義」する人物と直接会って話をし、そして「卑しくなどない」と「定義を上書き」する。私は世間が「正しい望ましい」と「定義」した物事を体験し、それは「正しくも望ましくもない」と「定義を上書き」する。定義の編集作業中、迷うこともある。その疑問について参照を必要とすることもある。そんな時はまちがっても『iPhone』の新機種の発売ぐらいしか心待ちにするイベントがない過剰性の虜や、正社員だの非正規だので態度を変えるマゾヒスティックな鎖マニアに訊いてはならない。そのようなものたちの総意こそが冬のドグマなのだから。参照するものとして価値があるのは、しいていえば「自然」「歴史」「直観(直感)」の三つだと私は思っている。

「自然」は超越からの流れの川下にあり、私の無知の渇きを必要に応じて満たしてくれるものであるし、「歴史」は膨大な時間と知の堆積のなかで流失しなかった意味と価値の実績であるし、「直観(直感)」は「全知」から私へ与えられたすべての経験とこれからの経験の傾向線でありガイダンスだからである。

すべての言葉と観念の定義編集権を自身にとりもどし、数百の言葉と観念を書き換え終えたころ、この文明の冬のグレイッシュなトーンのなかに映える彩度、差し色を捉えられるようになるにちがいない。技術が、人が、幸福の表現のうちに存在できる可能性は、常に、どの瞬間にもひらかれていると私は思う。そこはきっと、巨き過ぎず、自然があり、小さくとも密度の高いセンスで描かれる景色。

私はこれからも、残りの人生、ワシリー・カンディンスキーの『冬の風景』のような冬を生きようと思う。

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