黄昏に舞うもの 文明の冬の流行病

文明の冬の流行病

オズヴァルト・シュペングラーは、文明の没落期の技術に熱狂したような文明は、技術によって人間の精神や想像力、常識や知恵といったものがことごとくシステムに飲み込まれ、やがてはシステム自体が錆びついて停止するだろうと予告し、ガンサー・S・ステントは、進歩の果ての停滞で進歩への意欲が失われ、やがて人々は快楽をもとめ自分の快楽中枢に電気的な刺激をあたえるというような手段をとるであろうといった。アーノルド・J・トインビーは、技術的進歩と道徳的頽廃には密接な相関関係があるのではないかと考えていた。いずれも文明末期の季節予報である。

現在を文明の季節でたとえるなら末期の季節であると、私は思う。実りの秋は過ぎ去り、外でなく内の実りをたよりに生きる冬の季節であると。

冬に風邪が流行るように、文明の冬にも流行病というものがあるようだ。厄介なことは、この流行病が苦痛をともなわず、むしろ快楽――ステントがいった快楽中枢への電気的刺激のような――をともなって骨の髄、脳の髄にまで浸潤するということと、この病の重篤化を推し進める手法や観念こそが進取の気性であるといわんばかりのドグマが地球を覆い、みなこれを好んで蝟集し、もはやこの病から逃れる術、退かす術はないのではないかと思えるほどに盤踞していることだ。

「文明の冬」ではこれを病などとは思わず扱わず、信用ならない胡散臭い目をした嚮導者たちが、それら流行病を「進歩」だの「進化」だの「可能性」だのといった華美な虚言で飾り立て笛を吹き、それにまんまとのった幾千万のオートマタ(自動からくり人形、automata)たちが塊となって行進する、壮大な景色ならぬ気味の悪い悲劇的光景が、目下文明の冬景色である。

過剰性の陥穽にはまった技術

シュペングラーがいったように、現在はテクノデミック(technodemic)としかいいようがないありさまだ。その「技術」は予告されたとおり精神や想像力、常識や知恵といったものを人間から簒奪し、システムを肥え太らせつづけている。

現在の「技術」が人間と文明に「春」ではなく「冬」をもたらしている原因は、「技術」の目的が金銭的利益を含む数量の拡張にのみ度を越して傾斜し、いわば過剰性のみを供給しつづけるからではないか。それはさながら漏斗で食物を流し込み、胃が破裂してもそれをやめない機序、「システム」そのものである。

過剰性満たすのではなく溢れさせるのであり、それは意味や価値の流失、散逸を意味する。たとえばかつての黒電話による一対一の関係と、現在のSNS等の一対∞の関係における意味、価値を考えてみるとどうか。ただ拡張しただけの関係は、本旨に関係のない脱線や悪罵といった余剰で煩雑になり、意味や価値が∞倍されるということなどないのだ。それは人間にとって正価値なき拡張過剰性である。

砂粒のような虚しい言葉をどれだけ吐き散らしたところで、人はけっして豊かになどなりはしないし、幸福を感じられることもないということは、もう多くの人が実感し終えていることではないだろうか。私たち人間が本質的にもとめていることは、かならずおとずれる死を前提にした人生の意味や価値であって、技術にもとめるところはそれらに資するものであるはずだ。意味も価値も前提としない過剰性にとり憑かれた技術など、たいていは人間に消極的虚無をもたらす負価値なものでしかないのだ。

現在の「技術」は人間とその幸福から急激に剥離しつつあり、「システム」を主とし仕える簒奪者となり果てている。しかし忘れてはならないのは、「技術」なるもののそもそもは中立的価値であり、「技術」がこうもひどい過剰性の陥穽にはまった原因は、人間が自らの幸福についてすら恬として真剣に臨まない、他人の容喙をだらしなくゆるしてきたからであろうと思う。文明の冬の今、喫緊にもとめられていることは、イノベーションだのエボリューションだの以前に、人間にとって、各人にとっての技術の定義、幸福の定義を総括した、それらの再定義ではないだろうか。

「技術」が過剰性しか追い求められないことこそ技術の悲劇であり、人間が技術の過剰性にしか進化や進歩を見出だせないことがすでに技術へのニヒリズム(虚無主義)に陥っているのだということに気づかねばならない。

足るを知るとはきわめて狭義に「倹約に努める」というような意味で使われることが多いが、本質的には「自らの幸福の定義に則した態度」のことであると思う。そこには無論「技術」も含まれるのである。

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