その蜘蛛の巣は誰がはった(見た)のか

蜘蛛の巣にかかった私の思考

2020年5月、美しい新緑の彩度に目を奪われるその傍ら、女郎蜘蛛がまさに作りはじめた巣の糸の上で、せっせと働く姿を見つめる。自らの住まい兼仕事場を独りで作るその姿は殊勝だ。ちなみに程度の低さを罵る「虫けら」という言葉があるが、虫より殊勝な人間というものに私は出会ったことがない。「虫けら」という言葉は人間の度し難い無知を象徴するような言葉でもある。 私はかつて昆虫少年といわれるほど虫に夢中になった時期がある。今にして思えば、あれは自然の叡智への崇敬の入り口だったのかもしれない。

蜘蛛の巣の輪郭を決めるもっとも外側の糸はすでに葉にしっかりと張られ、外から内へと制作をすすめるプランのようだ。人の、私の制作方と同じで、とたんに親近感がわくと同時に、まごうことなき自然の行いと似ているのであれば、やはり日頃の制作方でまちがいはないのだと納得もする。自信も得る。かつて崇敬の入り口をくぐった少年は中年になった今でも虫に、自然に学ぼうとする。

時計と逆の回り方で、多角形を縮小しながら内側へと糸を張りすすめる、その間隔の精確さはまったく不思議なものだ。野の生き物たちはみな天才である。蜘蛛自身の体長の何倍もあるその広大な空間で、目先の作業に没頭しながらなぜ、完全に精確な完成形へ一度の手戻りもなく線を引いていけるのか。これが人間であれば、テニスコートより広い地面に精確な絵を描くような作業である。途中、何度も線を引き損ね、正しい線を引くためには高台から俯瞰するもうひとりの別の目の指示をあおぐか、逐一GPSに繋いでチェックしながらか、とにかく蜘蛛ほど巧くはできないだろう。そこで思い出した。かつての昆虫少年は、擬態する虫に同じことを思った。周囲と同化しているさまを、どう確認するのか。虫自身にそれはできないはずだ。では誰がまったくうまく周囲に溶け込むことに成功させているのか。

そこで考えをリセットする。蜘蛛の巣のアドレスはどこか。どこに存在しているのか。蜘蛛の巣のアドレスは観察者の意識である。蜘蛛に手戻りのない完璧な仕事をさせる知性はなにからやってきたのか。蜘蛛のなかのDNAか。そのDNAの表現、ルール、自然法のアドレスも、やはり観察者の意識である。ここで、たとえ観察者の意識がなくとも、客観的にいって蜘蛛も蜘蛛の巣も存在するといいたい人は山ほどいるのだろう。しかし残念ながら、その意識なしに蜘蛛も蜘蛛の巣も存在しえないし、客観的などといった視座の概念も存在しえない。それらは証明も確認も不可能であるから存在しないのと同じこと、すなわち存在しないといえる。

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誰もいない森で倒れた木は音を立てるか

誰もいない森で倒れた木は音を立てるかという問いに、あなたはどう答えるだろう。 「そりゃ音はするさ。その音を聴く者は誰もいやしないけど」と答えるだろうか。この質問は聖職者であり哲学者でもあったジョージ・バークリー(George Berkeley、1685 - 1753)の有名な質問で、「存在するとはどういうことか」における非常によい投げかけであると思う。

この問いに、哲学者あるいは物理学者、もしかすると禅僧なら、こう答えるかもしれない。「音は立てない」と。私の答えも同じだ。それは木が倒れて音を立てるという現象がどこに存在するとするのかが、存在の定義ともなる。木はどこに存在するのか、大地は、存在とはどこに存在するのか。

では具体的に紐解いてみよう。まず、木も大地も音を伝える空気も物質である。物質を突き詰めていくと原子になり、原子は原子核(陽子×中性子)とその周囲を回る電子という構造であり、太陽系に似てそのほとんどは何もない空間が占めている。さらに原子を突き詰めていくと、そこにはもはや物質ではないエネルギーという解釈しか存在しえない非物質の次元にたどりつく。つまり物質は寄れば寄るほどスカスカの空(くう)になっていくということになる。存在感あふれる固い巨木も広大な大地も、最後は存在感がないといっていいほどたよりないとなる。物の実体とは、物とはいいがたいなのだ。つまり、無いにひとしいものをたしかに在ると感じている錯覚めいたものが私たちが「物質」とか「現実」と呼ぶものの実際である。

実際はすべての物質的存在が「空」であるにもかかわらず、私たちは、木は木として、大地は大地として、空気は空気として、それらのたしかな存在を認めている。では「無い」にひとしいものが、どこで、たしかに「在る」ものへと変換されるのだろう。それが存在の誕生であり、存在のアドレスではないだろうか。その変換点は――私が人間なので人間においてはという前提が必要だが――「意識」が「在る」と「知覚」する瞬間であり、「知覚」が存在を創造する。有り体にいえば「知ること」すなわちが存在の本質であると考える。が可能力(デュナミス)と表裏であり、ダイナミズムそのものではないだろうか。

先のジョージ・バークリーの問いでいえば、木が倒れ振動した空気を音として耳(聴覚)が知覚し(知り)はじめて「音」が存在する。つまり聴くものがいない森で倒れた木は音を立てない。音は存在しない。

さらに突き詰めてみると、「存在」には先立つ「知」が前提条件となるのであれば、そもそも「音を立てて倒れる木」という事象に関わる空間や時間、重力や、空気が振動して音波となるといったそれら自然法の「存在」もまた意識があらかじめ知っていなければ成立しない。つまり観察者がそれを観察しうるということは、それを成り立たせるために必要なあらゆるすべてをあらかじめ知っているということになる。

観察者と観察されるものを超越した全知

私は蜘蛛があのように巣を作る光景をはじめて見た。そしてそれに小さな感動をおぼえた(と自覚している)が、このひとつの「経験」をするためには膨大な「存在」とそれに先立つ「知」が必要になる。ひとつ欠けてもこの「経験」は成立しない。私はDNAについても物理についてもそれほど詳しく学んだ経験はない。いわば素人である。にもかかわらず「経験」できたということは、私は無意識的にか潜在的にか、それを観察しうる条件すべてを満たしていた、「知っていた」ことになる。私の意識にはあらかじめプリセット(preset)された膨大な「知」があるということになる。

私は無知である(と自覚している)にもかかわらず、数多くの未知を観察し、経験もする。つまり私は無知であって無知ではないということになる。そうならざるをえない。自覚している私自身の無知を越えて、私には無意識的に潜在的に膨大な知があるということなら、その知はどこからくるのか。しかもそれはきわめて精妙であり神妙である。なぜなら私に「はじめて知った」という経験を成立させるため、知を無知に隠す。そのおかげで私は「感動」や「発見」という「経験」ができるのである。

原子を知らないものには原子は存在せず機能もしないということは実際ない。知らなくとも存在だけはしうるということもバークリーの論理どおり、ない。であれば存在し観察し体験しうるものに関わるすべてを知っているのである。私の顕在知を超越した、それは全知である。

あたかもサンタクロースの正体が親であるにもかかわらず、夢を抱かせるために子にその事実を隠すような、経験を目的とした機序、コンテクストを生成する意図のようなものが全知にはあると感じる。すべての経験は全知からやってくると考えるに、人は宇宙の「経験体」として集中した神経の突起物、空中線のようなものであり、おしなべて生命とはそのようなもののことなのかもしれない。

その蜘蛛の巣は誰がはった(見た)のか

それはまさに「コンテ」のようだ。一枚のカンバスに、蜘蛛の巣をはる蜘蛛と、蜘蛛の仕事にたいそう感心している私が書かれている。蜘蛛の巣をはる知恵と技術は全知すなわち「書き手」の意図であり、それに感心する私も「書き手」の意図である。すべて「書き手」の意図によるものだったと考えれば、すんなり腑に落ちる。

蜘蛛も蜘蛛の巣も私も、それを可視させている光も美しい新緑もすべて全知による創造であり存在であったのだ。すべては偉大なる「全知の書き手」による作品のなかに、粋なはからいとともに存在しているのであろう。ギリシアの哲学者クセノファネスがいった「ヘン-カイ-パン(hen kai pan)」つまり「一即全」について、知の不思議の解釈としてかつての昆虫少年は納得してくれるだろうか。

蜘蛛の巣をはったのも、それを見るものも、きっと全知の業(わざ)であろう。ようやっと、蜘蛛の巣にかかった私の思考が解放された。ということにしておこう。

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