情報過多でバカになる

情報過多という不健康

食べ過ぎも、飲み過ぎも、寝過ぎも、体調を崩す。「情報」に触れ過ぎること、知り過ぎることもまた、頭の調子を崩すことを、自身の経験から知っている。過ぎたるは及ばざるが如しは「情報」においても例外ではない。「情報」にかぎって過多になっても問題がないというのは、道理にそぐわない話だ。

ネットが拡大した現在において、情報ほど繁殖しているものはないのではないか。おまけにタダでとり放題である。だからすぐに、簡単に「過多」になる。石を投げればスマホを見ている人間にあたるというぐらい、皆スマホを見ているが、スマホというのは無尽蔵の菓子袋のようなものだ。そんなものを後生大事に持っていたら、そりゃ誰だって情報肥満になるというものだ。胃袋には容量の限界があるから、一月分をまとめて食うなどさすがにできないが、脳みそと情報の関係は胃袋と食物の関係よりもはるかに限界が曖昧だ。よって、とり過ぎる。それも知らず識らずのうちだから、たちが悪い。ふだんから食べ過ぎないよう、太り過ぎないよう気をつけている人であっても、情報肥満の人は多いだろう。脳みその中身はぶくぶくと太り、脂肪でギトギトである。外見のダイエットに成功していても、内面のダイエットに大失敗している人たち。

情報肥満もまた、肥満と同じく健康を損なう可能性がある不健康なものだろう。栄養価の低い、ジャンクな情報は遠ざけるべきだ。食事の時間や回数に規則性があることが健康に良いように、情報の摂取にも規則性があったほうが良いにちがいない。だらだらと卑しく情報を貪り食うことは、だらしのない「知の体型(系)」につながるはずだと考える。

ジャンク情報とは、
永遠に自身の現実に機能しないもの、実践を伴わないもの

私が思う情報肥満の原因となる「ジャンク情報」とはどのようなものか。その基準を端的に指し示してくれる言葉がある――知行合一。陽明学のプリンシプルのひとつだが、情報過多の現代においては、スマホの、パソコンの壁紙にしてでも常に念頭に置いておきたい言葉だ。意味はつまり、知ることと行うことのバランスがだいじであり、コインの表裏であるという重要なことをいっている。ただ知っているだけで自身の現実に機能しないもの、実践を伴わないものは知行不合一ということで、良知に非ずということだろうか。SNS等で見ず知らずの人物が「今日のランチに何を食っただの」といった情報等は「ジャンク」であり「ゴミ」であり――否、燃やして暖を取ることにも利用できないゴミ以下ともいえる――プッシュ通知でそんなゴミ情報を自身に流し込み続けることは情報のゴミ屋敷に住んでいる狂人と紙一重だといっても過言ではないのではないか。

あるいはニュースを邪推して、その裏にはなにかとんでもない陰謀があるにちがいないと、情報の穴を掘り進め、暗い穴から戻ってこれなくなるような現象。ここでもふと一度立ち止まり、我に返って考えてみる習慣をつけることは、かぎりある人生に有益なことだろう。仮にその陰謀に行き着き、巨大な組織、力の存在を知ったとして、では自身はそれにたいして何ができるのか。じつに恐ろしい、ゆるしがたい謀略だと知った後、『サイゼリヤ』のおすすめランチを食いに行くだけなら、陰謀に耽っている時間を、サイゼリヤは食材にたいしてどういったポリシーをもっているのかとか、どうしてあんなに安価で提供できるのだろうといったリサーチにあてたほうが有益ではないだろうか。何の行動も影響も伴わない情報なら、行動を伴う情報のほうが「活情報」として価値があるのではないか。

100種類の筋トレ方法を知っているだけの者より、バカのひとつ覚えでも一種類の筋トレを続けた者のほうが実際に使える強い筋力を得ることになる。

ちなみに「バカ」という言葉には「用をなさないこと、機能しないこと、無益なこと」という意味もある。情報過多で「バカ」に陥らないよう意識的でいることは、現代では避けられないだろう。

ジャンク情報は、短く、気分的な皮をかぶってやってくる

知らず識らずのうちに我々の貴重な意識や時間といった資源を浪費させる「ジャンク情報」。それらはたいてい、「短く、気分的」な皮をかぶって現れる。ニュース等では、ヘッドライン(見出し)がその役割を果たす。そしてその見出しにまんまとひっかかり、その後何十分、あるいは何時間も、そのことに意識を割いて、恐れたり、不安になったりするというパターン。自宅のリビングで、どこかの待合室で、ぼーっとテレビを眺めていようものなら、次々と「短く、気分的」なヘッドラインが目に飛び込んでくる。

以前、こんなものを目にした。『パリ銃撃憎しみの連鎖』というヘッドライン。それとともに、内容に応じて役者のように表情や声のトーンを変える訓練を受けたかのようなニュースキャスターがより「気分的」に語りだす。そしてほんの数分、その内容が映し出された後、ぼーっとした人たちは翌日、会社の同僚と、近所の人と、こんな会話を交わすのだろう。「なんだか最近物騒になったわね」と。「なんだか世の中どんどん悪くなっていっているようで不安」だと。パリに行ったこともなければ、実物の銃に触れたことも見たこともなく、犯人といわれる人物のことなど何ひとつ知らない人たちが、まったく見事なまでに染まっていく。そんなバカな、と言いたい。そこに映し出されていたことから知り得ることといえば、そこに映し出された視聴覚情報のみであって、それがはたして事実の録画なのか、演出なのか、はたまたCGなのか、ただの視聴者が確証を得ることはまずできず、彼ら彼女らは想像力の補完がいくらなんでも行き過ぎである。

大衆などというものは、つくづく気分で動くものだと、誰でもわかるだろう。短くキャッチーな言葉に、表情と、声音のトーンを合わせれば、はいできあがり、である。カップラーメンができあがるより早い。このような手法は、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)のゲッベルスが体系化しきわめたものでもあるが、その手法が陳腐化しない、抜群に効果を発揮しつづけることが私はなにより恐ろしい。

最近、YouTubeの広告等でも、スキップ待ちの5秒間すら耐え難い、下劣きわまりない広告が増えてきたと感じるが、きっとこれで売上が爆発的に増えているのだろうと思うと、なんだかその後の動画も見る気が失せていくものである。

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現代では情報は無限に発生しつづける、きりがないものだ。自身に関係のない情報をいちいち捕捉し、仔細に調べ上げたところで、知的射程範囲外の情報、影響外の情報、検証不可能な情報等、おとぎ話と大差ない重要度ではないだろうか。縁遠い不確かな情報に貴重な意識や時間を割くことは、それが敵の戦闘機なのか、カモメなのか、あるいはハチなのかわからないものに高コストのミサイルを放ちつづけるようなものではないだろうか。

最後に、「情報過多でバカにならない」ために、素晴らしい格言を紹介します。

How much pain they have cost us, the evils which have never happened.
ついに起こらなかった害悪のために、我々はどれほど多くの苦しみを味わされたことか!
――
トーマス・ジェファーソン

情報化社会における「バカ」とは「不幸」と同義語なのだろう。

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