感染症災害前提社会|世間|共同体の変化

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リアルのアイソレーション、
ネットのコミュニケーション

感染症災害前提社会では、少なくとも、リアルの物理的コミュニケーションが、感染症災害前よりも盛んになるということは考え難い。物理的人間と人間のあいだには、目に見えない意識的なバリアができ、ゆるやかな「アイソレーション(隔離・孤立、isolation)化」が進むのではないか。接触する、触れ合うということは、これまで以上に親密なコミュニケーションにのみ限定された態度になると思われる。

そうした流れ、標準化のなかでは、成り行きのひとつとして、大規模な群集をリアルでは形成しにくくなる。何百何千という人と共有する空間は極力ネットへ移転するということになるのではないか。それは「無観客」によってイベントが行われている現状から想像できることでもある。そこでニーズとして生まれるであろう「臨場感」は、テクノロジーやUI、UXデザインによって、ある程度は応えることができるようになっていくだろう。オリンピックなどのようなドル箱イベントが感染リスクを理由にこの先いつまでも縮退をつづけるはずもなく、マーケットの存立を下支えするようなテクノロジーには惜しみない資金の投入がされることだろう。

アイソレーション化し、関係性の大部分をよりネットに移転(依存)した個人」というターゲット層がさらに分厚くなるのかもしれない。

パンデミックからの少子化、
または負の連鎖によるスラム化

成り行きによっては、少子化の加速も考えられる。その原因には、個人間の目に見えないバリアの存在が男女のコミュニケーションをも消極に向かわせる可能性のみならず、感染症災害の衝撃が経済にダメージを与えたことによる貧困化、不安定化も関係してくる。1929年の世界大恐慌時の日本では、飢餓が広まり、行き詰まった状況からの犯罪、人身売買の横行等、社会全体が不安定化した。健全な家族を形成し、子供を育てられるような状況ではなくなったのだ。100年前と現在とでは状況は大きく異なるため、まったく同じことにはならないとしても、「ソフトスラム」というような状況が生まれることは想定の範囲内ではないだろうか。

そこでは各人、スマホもあるしユニクロも着られるのだけれども、傷んだ家屋の修繕などのまとまった出費には金がまわらず、食べる物も飢えをしのぐ程度のものとなり、そのような准貧困状態では教育や知性への欲求など後まわしになるのはやむをえず、マズローの欲求ピラミッドの下層のみで回るスラム的社会が形成されていくことも考えられる。経済においても知性においても、持たざるものは加速度的に貧しく、富めるものはさらに理不尽に富む、格差はさらに酷く見苦しいものになるという、そういうニューノーマルへのフラグもすでに立っているのではないか。

パンデミックからのシステム崩壊、
そこから生まれる新しい自律的社会観――自律性、共生、インテグリティ

これを書いている2020年5月上旬現在、今回の新型コロナウイルス(COVID-19)、あるいは今後考えられるさまざまな災害の度に、日本は堕ちていくのだろうと考えている。先述のように、この国の政治はナショナリズムではない、コマーシャリズムが原理となっているところが見受けられるため、国が国民を救うかどうかも、それが金になるなら救う、金にならないなら救わないという判断基準は、コマーシャリズムであるならばごく当然のこととなる。であるならば、そもそも、国を頼る、国は国民を救って当然だという考えは、その考え自体が非常識な大地にいる、ということになる。ナショナリズムで駆動する国家であればこそ通じる常識というものを、今のこの国の常識に当てはめてもしようがない。さらにいえば、昨今の間断なく押し寄せる予測不可能の危機にたいし、国や政治はそれらすべてを見事に処理してみせよというのは、その能力にたいし、もはや無理難題の要求になりつつあるのではないか。そうなってくると、軸足を置く拠り所は、少なくともお上ではなく、もっと「別のもの」にすべきであると思う。その「別のもの」は、もっと有機的である必要があるだろう。

システムがシステムのために振る舞いつづけるのならば、その振る舞いが(生身の人間にとって)虚妄と誤謬、偏見と悪意じみたものに感じられるのは必然であり、そうであるならば寄与すべき、軸足を置くべきは「インテグリティ(誠実・真摯、integrity)」ではないか。それは信頼できる人間であり、苦楽を共感・共有できる人間であり、覚悟をともにできる人間であり、生死を語り合える人間であり、そしてそれはすべての事象の結節点として万事の観察者として在る「わたし自身」というものへ統合された意識・知性に端を発する。先述の「真のコミュニケーションとは本源的価値の互恵関係」とは、つまりそれらの上に現れる関係性、「インテグリティ」である。

インテグリティによって形成された「共生体」は、社会構造によって否応なく利害を共有させられた「共同体」とは異なり、感情的「赦し」という「寛容」が存在する余地がある。ウイルスのような、一度蔓延したら、もう地上からひとつ残らず消去することが実際的にはできないようなリスク、すなわち受け入れざるをえないようなリスクにおいて、その寛容さ「あそび(物事にゆとりをもたすこと)」が入りえる関係性、インテグリティによって形成された「共生体」は、感染症災害前提社会の頼るべき最後の砦、人間性が存在できる最後の空間として機能するのではないか。

インテグリティがあればこそ、家族に、仲間に、感染リスクが及ぶような行動を自発的、自律的に自粛もするし、信頼から行動のトレースを必要としない間柄であればこそ、いざどちらかが感染した際には、寛容さのなかに運命として受け入れ、共生体という最小社会をセグメントとして仕切り、大きな社会とのソーシャルディスタンスを図ることもできる。そもそも、お上からカレンダーで区切られた期間を自粛したら、まちがいなく解決されるような種の問題でもないのだ。システムに依存したまま、「共同体」として、この種の問題を解決、あるいは被害の最小化、コントロールを図るなら、人間一人ひとりをよりアイソレーション化する、同時に人を感染媒体と同義にし、ニーチェの言葉に輪をかけて「超畜群化」というような画一的管理を目指す方向しかないのではないか。

ただ一人の人間が、ただ一生物として生存するという究極的に原始的な目的においても、「システム」という巨大な機構、検閲に直付けされなければ生きられない構造は、ひどく管理的で無機的に傾いていると思える。最低限の活動なら「共生体」でまわせるような仕組み、自律性、ポジティブな「ソフトスラム」というかたち、ニューノーマルを想像ぐらいはしはじめてもいいのではないだろうか。

ニューノーマルのはじまりは、形式的、様式的なものを指す概念かもしれないが、深い意味においてのニューノーマルとは、自分なりの「幸福論」をたずさえて生を表現するという、生のデザイン、編集観、それを自明とすること、その標準化であってほしいと、個人的に願うところである。

ポストコロナの世界がどうなるかなど、どれだけ議論したところでこの記事のタイトルどおり、それらはどこまでいっても「憶測」にすぎない。この先どのビジネスが伸び、安泰であるかなど、憶測はできても真に予測などできないし、新型コロナウイルス(COVID-19)がこの先どうなっていくのかも「憶測」しかできない。その証拠に、去年2019年の年末、たった数ヶ月前に年越し蕎麦をすすっていた私は、コロナの「コ」の字も予測できなかったのだから。

人生とは常に未知との遭遇であり、今はこうして外出を控えながら『ドクターマリオ』をプレイし、とりあえず、せめて画面上のウイルスを軽快に消滅させてポジティブなマインドを維持することに努めることにする。