印籠文化

2020年でも「印籠文化」

2020年2月。新型コロナウイルスが大きく問題化している。 ここでは新型コロナウイルスについての直接的なことではなく、この問題をふくむ近年起こったさまざまな社会問題を俯瞰し、また、今回の新型コロナウイルスの問題を契機とし、ますます顕在化したとみられることを書いてみる。そこでタイトルとして浮かんだのは「印籠文化」という言葉だ。

「印籠」といえば『水戸黄門』を真っ先に思い浮かべる人も多いと思うが、もともと「印籠」は中国から印判入れとして渡来し、小型化に伴い薬などの携帯に用いるようになったらしい。今でいうピルケースのようなものか。『水戸黄門』のような権力や地位を象徴するものとして扱われるようになったのは江戸時代の一時期ということだ。移動手段としての車が、やがてステータスシンボルとしての側面をもつようになるのと似たようなものか。

私がここで用いる「印籠文化」という言葉の「印籠」は、権力や地位を象徴するものとしての「印籠」であり、その「印籠」が織りなす仕儀、文化的光景を「印籠文化」と名付けてみる。

印籠をかざす者、印籠を見てひれ伏す者、
ひれ伏す周囲を見て、わけもわからずひれ伏す者

戦後日本の大地から生まれた「コマーシャリズム」や「スキャンダリズム」、理非曲直の判断能力すら失われたような酩酊状態、空気と称されることもある「ジャパニーズ・ドグマ」、それらをぎゅっと詰め込んだ象徴的なものが「印籠」であり、印籠から漏れ出る瘴気をイメージすれば「ジャパニーズ・パンドラ(の箱)」のようでもある。

現代の「印籠」はバリエーション豊かだ。そこに印された文字は、前例がない一生懸命みんなそうしている景気は緩やかに回復しつつある――ここまでくるともう印籠も喜劇の小道具といわざるをえない――など、その意味を冷静に観照するだけで「印籠効果」など生まれえないはずのものばかりだが、しかし冷静でないものにたいしては水戸光圀公もひっくり返るほどの効果を発揮する。これらの印籠を掲げられ、(大脳皮質を介さず)脊髄反射的にそれにひれ伏し、あるいはひれ伏す周囲を見てわけもわからず――もはや印籠にではなく空気に――ひれ伏す者などによって物事が執り行われる社会、文化、それが「印籠文化」である。

今回の新型コロナウイルスの問題においても無論「印籠」は大活躍である。江戸から令和になり、そのかたちは失われ、また、「印籠」は国産品から海外生産品になったものの、「印籠」は日本人の心のなかに今でも黒光りしながら存在しているようだ。

「(既往歴のある)高齢者以外はすぐに生命に危機が及ぶことはなさそうだ」と「印籠」がいえば、「罹っても私は若いからだいじょうぶ」と胸を張って人混みに飛び込む若者、あるいは政府の対応の後れへの批判も、「印籠」が「一生懸命やっているのだ」といえば「一生懸命やっている者を責めてはいけない」とばかりにあっけなく矛を収め(させられ)る。「印籠」が「私は貧乏人の生涯賃金など一夜にして稼ぎだすほどの著名人であるぞ」といえば「それならば信ずるに値する」と地に額をこすりつけて隷属する者が何百万人もいるような、そんな現在をみては、300年経てども健在な印籠文化を認めざるをえない。

その「印籠」にどのような紋を印しどのような人物に掲げさせどのような効果を期待するか、それらすべては「コマーシャリズム」と「スキャンダリズム」の運動にすぎないのに、そのメッキがもはや剥がれつつ地肌の虚構という素材がちらり見えているにもかかわらず、コマーシャリズムとしてスキャンダリズムとして大勢として「印籠支持」の者たちが(ウイルス以上に)蔓延しているこの国内の状況においてはもう、新しい一万円札は『水戸黄門(徳川光圀)』にするのがいいのではないかと思う。

この先、ウイルスであれミサイルであれ隕石であれイナゴの大群であれ、何が飛んで来てもそれらはすべて「コマーシャリズム」と「スキャンダリズム」の演出の大道具・小道具として使われるのであり、「印籠」は今後さらに「イドラ(幻像、idola)」由来の物質イドライト(造語)の含有率を高めながら、児戯めいた粗悪なものになっていくのであろうと思う。水戸光圀公も「さすがにこんな印籠は持ち歩きたくないし人前でかざせば知性を疑われる」というであろうほど粗悪なものへと。

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粗悪な印籠の中身

ではそんな粗悪な「印籠」に惑わされないためにすべきことはなにか。ごく日常的なことからいえば、テレビで定時に流れるニュース等のを、きちんと「劇」として、『宝塚歌劇』や『吉本新喜劇』と同じように楽しみ――脚本性のある表現物としてそれらは同じである――観ることのできる冷静さを基点とし常態とすることであり、ググってせいぜい1ページ目の検索結果の情報だけですべてを決定してしまうような自らの横着さを謙虚さの横槍で突付いてみることであり、140字足らずの電報レベルのぶつ切りテキストでもってこれぞ情報収集・情報発信と満足してしまわず、せめて数万文字程度のテキストには目を通し、なにより自分の思考と感覚、直感、直観をフルに使って、ちょっと考え疲れるぐらい、ためつすがめつ自力で物事をこねくりまわしてみることではないか。

人が発する情報はほとんどすべて「ポジショントーク」であり、人が食うこと以外に口や舌を使ってまでして言葉を発する理由のほとんどすべては「利」のためであるといってほぼまちがいない。ここに書いてあることもすべて、私のポジショントークにすぎない。人のかざす「印籠」のその中は、薬すら入っていない、自分にとっては意味も価値もない、下手をすると害毒になるような「他者の利と欲」であるという前提で、「印籠は訝しんでなんぼ」、それが正しい「印籠の見方」だと私は思う。黒光りする印籠の中身は、大抵、もっとドス黒いものが入っているというのが、印籠文化・日本での通り相場なのだから。

『水戸黄門』という「劇」のなかで、「格さん」が掲げる「葵の家紋のはいった印籠」に瞬間的にひれ伏す、およそ300年前の者たちから、大してなにも進歩していないという自覚が、最初にもつべき危機感であるのかもしれない。

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