フィジカルセンス

たとえばカセットテープの良さは音に関するものよりむしろ、
フィジカルセンスな人と物の関係性にある

荷を整理していて、古いお気に入りの曲が録音された「カセットテープ」を見つけた時の心の状態と、検索して難なく目当ての「.mp3」ファイルを見つけた時の心の状態。脳神経細胞のニューロンのはたらきは、どのように違ったものなのだろう。

思い入れのある人やペットを亡くしたり、物を失った心の状態で、「安心してください。それは分子レベルでちゃんと存在していますよ」と言われても、言葉を頭でひととおり咀嚼した後、やっぱり元に戻って喪失感を感じるのはなぜだろう。

それは存在を「物質的(フィジカル)」には感じられないからだろう。あの笑顔、あのしぐさ、あのぬくもり、あの重みこそが命という現象の「実体」として感じられたのであって、目に見えない粒子や霊となって存在していると言われても、そこに「フィジカルセンスな関係性」は甦らない。たとえ存在や事実を「頭」で認められはしても、感じられる「実体」のなさに「感覚(センス)」は空しさを覚え、しっくりこない。私自身の経験からも、「心」を満たすためには「感覚」を通すことが重要なことのようだ。「粒子や霊となってくれたおかげで、よりユビキタス(遍在、ubiquitous)な存在になり、これで今まで以上に、常に存在を感じられる」という人は稀だろう。

そして「感覚」は「感情」と不可分な関係にあるように思う。「感情」は「感覚」という地から生じ、あるいはその地を蹴って高く舞い上がるものなのだろうと考える。

たとえばケージ越しに可愛らしい子犬を見ているのと、抱きかかえ、そのぬくもりを感じ、華奢な体をかばうような力加減を体感すると、情が移るという、「感覚」によって「感情」のボルテージが一段上がることがある。こうしてみると「感情」という字に「こころ」とルビを振るのは、ある意味そのとおりだと思うし、それらは一体であるという観念もまた、そのとおりだと思う。

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進む感情の廃用性萎縮

「カセットテープ」の価値が2020年の今、一部で再燃しているという。そう聞いてすぐさま、「デジタルデータに比べ、扱いが不便なカセットテープがなぜ」という疑問をもったとしたら、それは相当、無意識的に「効率脳化」が進んでいると思われる。

先に究極的な結論を言ってしまえば、そもそも「効率」だけを追求するのなら、人間、生物なるものに生まれることそれ自体が七面倒臭いことなのだから、生まれてこないという選択をすることになりはしないか。私はそう思う。畢竟、人間として生きる、生物という役を演じることは、七面倒臭いことを引き受けた上で、それを補って余りある価値を見出すことに生きる意味を据え置くしかない。そう考えなければ、生きるということを価値化するのは私には難しい。つまり「効率」のみならず好率という心の運動、価値というものが重要なのだと考える。「AIが人間の居場所を奪う」というストーリーは、「効率」の価値に大きく傾き、視野狭窄に陥った社会の風刺と見てとれる視点もある。

カセットテープは好率という情を移す媒体として、フィジカルセンスな関係性の構築においては、「効率」で勝る「.mp3」より優れていると感じる。子犬の例と同じように、カシャカシャした乾いた手触りやその音、機序が丸ごと可視化された構造や、扱う力加減、それらが感覚を刺激し、「心」に数量的には測れない何かを涵養する。

今はタッチ(スクリーン)でダウンロード、物も届く。人間関係を切るようなこともできる。ストレージの容量は膨大、聞いた音楽一生分を収めることもできる。高効率であることはたしかだ。しかしそれらは「心」をカセットテープにたとえるならA面、片側しか録音していない、あるいは聞いていないようなものではないか。「B面にはクセはあるが自分らしさを詰め込んだセレクション」という「趣(おもむき)」が空になっているようなものではないだろうか。

「効率」の極みで目にした光景は、憧れて帰りたくなるような夕景ではなかった。「効率」は「さらなる高効率」を高速で追い求めつづけるオートマティズム(自動症)に陥り、「趣」の価値もそれが涵養される時間も「効率」の名のもとに切り捨てた。

思えば私は仕事の道具には高速であったり大容量であったりコスパといった「効率」を重視しつづけているけれど、それは仕事だからであって、仕事外の楽しみにまで、そんな鈍色一色の世界観は持ち込みたくない。そこにおいては昔から変わらず好率重視であったことをこれを書いていて再認識した。

私は常識一辺倒ではない個性的な人が好きだし、愛着のあるものはスペックや数量度外視だし、瓶ビールの栓を抜く一手間も趣きがあって良いと感じるし、エレベーターの効率より京町家風の建物の木の階段の軋む音に豊かさを感じるし、車の往来がはげしい国道沿いより遠回りでも静かな堤防を歩くことを好む。そして歳をとり余暇を非効率・高好率に傾けるようになるほど今の居心地が良いのは、つまりそういうことなのだろう。

人生という命の総体においては、できるだけ多様な感覚を用い、感情の揺らぎやノイズを豊かに取り込むことで、それは満たされていくものなのだろうと思う。それがたとえ繰り返す同じような日々であったとしても、フィジカルセンスのさじ加減ひとつ、所作ひとつに、人生に裨益する何かが宿っているのだと、私は思う。

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