退屈の柩II

価値という言葉の退化

先日、とあるベンチに腰掛けて一服していた時のこと。
パソコン教室の前に設置してあるスクリーンが視界に入り、宣伝の映像を眺めていたのだが、それの最後の決め台詞自分の市場価値を上げろというものに、なんともいえない違和感と虚しさをおぼえたものだ。

じつは近年、飛び交う価値を含む言葉の多くに、なんとも胡散臭いような虚しいような違和感を感じていたものだが、ここらで一度、その違和感を言葉にしてみようと思った。 これもそのパソコン教室のおかげである。 通りすがりの者に、思いもよらないものを教える教室があるものだ。

価値という言葉の意味を、あらためて辞書で引いてみると、こうある。

か-ち【価値・価直】
(1)物事の役に立つ性質・程度。経済学では商品は使用価値と交換価値とをもつとされる。ねうち。効用。
(2)[哲]「よい」といわれる性質。「わるい」といわれる性質は反価値。
広義では価値と反価値とを含めて価値という。
(ア)人間の好悪の対象になる性質。
(イ)個人の好悪とは無関係に、誰もが「よい」として承認すべき普遍的な性質。真・善・美など。
――
広辞苑 第六版

なるほど、辞書とはまったく優れた書物だと思う。 言葉の正しい定義に立ち返るだけで、ズレというか違和感のようなものを瞬時に炙り出してくれるのだから。

つまり私が常日頃感じていた価値という言葉にたいする違和感は、価値という言葉が普遍的なるもの、哲学的なるもの、「真・善・美」のような抽象的な意味内容から完全に剥離し、ほぼ経済学用語的にのみ扱われているという、その偏りにあるようだ。 それがいわゆるビジネストピックなどで頻出する「付加価値」や、先のような「市場価値」という言葉への違和感になる。 そう考えると、価値という言葉自体、価値を流失し、随分とちっぽけな意味内容に引き下ろされたものだ。 こうしてひとつの言葉の定義が退化させられたことで、言葉というソースコードからなる表現体としての文明、世間、人間の退化もやむなし、というわけだ。私はそう考える。

経済学用語と化した価値という言葉は、現に経済的に価値のないものを存在ごと価値なしとして、ぶった切っている。 人間を含む森羅万象を経済的に価値があるのか、ないのかという、なんとも浅薄で狂信的ともいえる価値基準で、ブルドーザーのように他のさまざまな側面、価値を蹂躙しながら突き進んでいる。 これをグロテスクといわずしてなんといおう。

そしてその狂信的でグロテスクな運動に、まんまと納得したあげく、自らを「価値のない人間」などと認めてしまっている人を、私はこれまで嫌というほど見てきた。 「おいおい、しっかりしておくれ」と言いたい。 だから言葉というものを侮ってはいけないのだ。

現代の価値の中身とは、
軽信と虚無の誤魔化しとインスタントな使い捨ての快楽

「これからのビジネスは付加価値だ!」なんていうから何をするのかと思えば、商品自体は何も変えず、単にストーリー仕立てで売り込めという。そんなことはずっと以前からセールスではよくある常套手段、特筆大書するほどのことではないように思うのだが、新しいもののように演出を効かせると、新しいアイデアとして受け入れられるようだ。 「AI」という冠をかぶせれば、既存のプログラムの応用にすぎないようなものでも最先端になるのと似ている。 これらはつまり「人の軽信を突け」ということだ。 言い回しを変え、軽信の懐に入る。 それが付加価値のひとつになるということではないか。

あるいは「これからは動画コンテンツの価値競争時代だ!」なんていうから期待したら、いつまで経てどもその内容は激辛の調味料でもんどり打って騒ぐ内容料理中の手元を撮っただけのもの自らの私生活を録画し少しばかり演出の味付けをしたものマネーゲームの攻略法動物を録画しただけの映像など、 これらがきたる次代の付加価値でありコンテンツだとするなら、今これからの「価値あるコンテンツ」とは、少々極端にいえばつまり「退屈の柩」のなかで自動症的な戯れに耽る人々に向けた「虚無の誤魔化し」と「インスタントな使い捨ての快楽」がどうやら通底する価値のようだ。 こういったものに人々が蝟集しているのは事実である。

そうであるとするなら、あまり大きな声では言いたくないが、こういわざるをえない。
「自分の市場価値を上げたいのなら、エクセルやフォトショップをマスターしたところで大した意味はない。それよりも、人の軽信を突き、虚無の誤魔化しやインスタントな使い捨ての快楽を提供することを考えるべきだろう」と。

イメージ
電波への軽信、金銭とそれを得るための知識と技術、虚無の誤魔化しと刹那な快楽こそが現代の価値である。 本源的価値は失われ、それらのことごとに呆れ果てた者は見ざる聞かざる言わざる 、目を背けヘッドフォンをし、黙してそのふりを続けるのだ。片端の価値を掲げ、賛嘆する。不信の刃を後ろ手に隠しつつ。

「退屈の柩」のなかにいる人々は、
手向けの花など求めてはいない

「退屈の柩」はいよいよ閉じられはじめ、もはや手向けの花が差し込めるほどの隙間のある柩はごく少数である。 あとは埋葬され、土中にもとどく電波をたよりに、柩の中で小さなスクリーンを見つめる死人をいかに楽しませるか。 これはなにもシニカルな物言いのつもりはなく、「退屈の柩」がマジョリティとなったネクロポリス(死人の都、necropolis)で「自分の市場価値を上げる」ためには無視できない視点だと私は考える。

もっとも、ネクロポリスという、どうも腹の底から楽しめなさそうな、片端の価値──好悪や損得を超越した真・善・美などが剥離し度外視されたという意味で──が跋扈する陰気な盤上で勝者にこだわるのであれば、だが。

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