言葉を過去から切り取った時、
言葉は根を失う

私たちは日々、選択の連続のなかで生きている。 そしてそのほとんどすべての選択は、大なり小なり過去との接点をもっている。過去の一切を参照しない選択とは、つまりギャンブルにほかならない。

今に残る数々の言葉もまた、歴史という時間の堆積との、過去との接点をもっている。過去の一切と関係がない言葉とは、空語、言葉もどきにすぎない。 過去は言葉においても現象においても現在と未来の基底となるマテリアルである。

しかし世は空前の「革命ラッシュ」、あるいは「改革と称した革命ラッシュ」である。 革命には過去からの離脱、遊離という願望が含まれ、さらにその底にある概念は過去の否定、貶下を含むことが少なくない。

(前略)革命とは不連続な変化のことである。技術によって新しき不連続な変化を社会にもたらすことで、わが文明はさらなる進歩を遂げるであろう、という話である。(中略)表立ってはそれを信じたかのようなふりをしなければ、未来というものをイメージできないような有様になっている。
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西部邁『大錯覚時代』新潮社、1987年。

IT革命にはじまり、現代の革命の主軸は「技術」だろう。 この技術を表看板にした前方(未来)に傾倒した姿勢、強く意識した姿勢をよく「未来志向」と称してじつに楽観的なイメージとともに賛嘆しているけれども、私にいわせれば自身の後方、これまでの軌道も省みない前進のことを「猪突猛進」という。

たとえば革命的に言葉を刷新しようということで、これからは「ねこ」のことを「ぬこ」としよう、といわれても、私たち個人の持ちえる時間をはるかに上回る時間の堆積をかけて形づくられた「ねこ」という言葉への合意を秤にかければ、お断りします、といわざるをえない。 これは「時効の証明」である。数百年、数千年の時にたえて残るものというのは、それ相応の意味、価値があると考えてまずまちがいないのではないか。それは無知の知の態度でもある。 たとえば、芸能人の誰某がクスリをやっていた、などというゴシップが百年先にも「活情報」として生き続けることはまずありえないだろう。反対に、バッハの名曲が百年先にも「活情報」として生き続けている可能性は高いのではないか。 エビデンス(証拠・根拠、evidence)が大好物の現代が、過去という普遍のエビデンスを否定し、ヴァンダリズム(文化破壊の野蛮、vandalism)に突き進むのは、私には分裂症的な病に見える。

西部邁氏が語っておられるように、私も「伝統」というものの肝要は、伝統工芸品や形式を軽んじるわけではないが、そうした実体的なものよりもむしろ「時効によって証明された精神の構えと知恵」、言い換えるならば「変化常なき現象世界において、恒常的なるもの、本質的なるものを希求し追求した結果の知の構造」にあるのではないかと考える。 それは「かたちなきもののかたち」であり、それを表すものが「言葉」である。 未来という不確定なものに対峙する際、現時点ではこれをよすがにする以外にないと思える。 革命的と銘打ったAI事業が、どうも想定より仄暗い、従来のプログラム技術にAIというメッキ加工をしただけではないのかというようなニュースを見れば尚更「伝統の根拠」をあっさり棄てる気になどなれない。進歩の定義もいいかげんな似非進歩主義の嚮導者の、これまた薄っぺらなジャーゴンに乗せられて、ミーハーついでに時効の証明までも捨ててみるというのは、取り返しのつかないギャンブルにほかならない。

歴史という厖大な時間の、その蓄積性、蓄積から析出された知の本質性、その密度は、現世に生きる天才を含めたすべての者が束になっても及ばないものであろうことは、想像に難くない。伝統という知の構造は、厖大な「現在」とよばれた時の重層のなかに透かしてみえる定点のようなものであろうことを想像せざるをえない。

私は今日までの私の過去を参照しなければ、今現在に納得ができない。明日のことを決められない。私のこれまでの人生の歩みは、私の小伝統である。 これまでの経験なり、関係なり、知識なりといった全身全霊で生きた過去の上にしか、未来は仮説、想定すら立たないということである。

(前略)言葉は過去からやってくるわけであって、過去を失った言葉は、結局は現在の一瞬にただよう点になってしまう。つまり言葉というものが曲線とか曲面で比喩されるような連綿とした時間のつながりを失ってしまうと、現在が本当のポイントに化してしまうのである。点には無数の接線を引くことができるから、現在が点に化してしまえば、私たちは多方向に進めるということになる。接線が無限本引けると同じように、前後左右どこにでもいけるかのような気持になる。そういう意味で言葉の表現はあたかも自由になったかのように思うが、そこで問題が起こる。確かに私たちは多方向にいけ、どこにでも逃走できるし飛躍できる。ところがそのうちかならずひとつを選ばなければいけないのである。そのときに、どういう基準で選びとるのか。自分が選びとったことをどう納得するのか。選びとるための基準を、選びとるに際してのさまざまな制約条件を、ためつすがめつ検討するなかではじめて自分の進むべき方向が見つかるのである。生きるというのはそういうことであるし、同時に表現とはそういうことである。
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西部邁『大錯覚時代』新潮社、1987年。
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現在は瞬間的に過去となり、過ぎ去った無限点が線となり面となり、智嚢の根として現在に機能する。それを磁針としてようやく、現在そして不確実な未来へのおおよその道筋となり判断基準となる。 イメージ
無限や自由や可能性という甘美な言葉に反射的に突き動かされるさまもまた、一種のピュエリリズムではないだろうか。過去を断ち切り無限本の接線(自由)を手に入れ、しかもそれを意のままにできるという思い上がりは人間の無知であり、最後は往々にしてアノミー(無規範)に帰結する。そして運否天賦のギャンブル的狂躁に堕ちてゆく。現在の日本でカジノ産業が切り札になっているのは、なんとも皮肉なシンクロのように思える。

意味と価値の素子となる、
言葉を捉え直すしかないのではないか

「退屈の柩」が開き、待っている。あるいはすでにそのなかに横たわっている。 このような疑似死状態から逃れるためには、意味と価値の素子であるところの「言葉」を捉え直すしかないと考える。 それは切り花となって枯れゆくものに、言葉の過去の繋がり「根」を取り戻す作業でもある。 時効によって証明済みのシンタックスを現在ナイズしたフレームワークで活かすような、「新しさ」とともに「確からしさ」という視点にも目をひらくことである。 AIだイノベーションだという以前に、人が世代を越えた時をかけて充分に意味と価値を考察した大情報からの析出である伝統、西部邁氏の言葉を拝借するなら過去から伝えられし生き方の統辞法を言葉に取り戻し、言葉に取り戻されれば思考に取り戻され、それは態度へ、関係へとより表層へ滲出していくことだろう。

吾輩は波斯(ペルシャ)産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。
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夏目漱石『吾輩は猫である』1905年。

私は亡くした愛猫を語る時、「ぬこ」とは呼ばず、これぐらい丁寧に言葉を紡いで、彼を語りたい。 言葉ひとつに、愛情の程度、感謝の程度が表されるのであるから、私の愛情が、感謝が、けっしてふざけたものでなかったことを、言葉をもって表現したい。 そしてそれら言葉の堆積が、私という小伝統そのものであろうと思うのです。