退屈の柩

現代は「退屈の柩」に封じ込められた

2020年を目前に控えた2019年師走。 元号も「平成」から「令和」へと変わり、ひとつの結節点として、自身をとりまく状況について、西部邁氏の名著『大錯覚時代|新潮社 1987』を参考に、すこし考えてみたいと思う。

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30年以上前の本だが、2019年の今読むと、焦眉の危機、あるいは既に具現されてしまった危機として、すべての言葉がズドンと重く腹にひびく。
西部邁『大錯覚時代』新潮社、1987年。

30年以上前にすでに氏の洞察によって、現在の日本のありさまは予見されていた。 退屈の柩とは同書に出てくるロバート・ニスベットが用いた表現だが、2020年代はまさに「退屈の柩」のなかで、あるい柩を眼前に、どう立ち振る舞うのか、生者としてその柩にどう向き合うのかを強く問われる時代になるであろうと思う。

私はここ何年か、頽廃的な言葉や下品きわまりない表現にほとほと疲れ果て、SNSをはじめ、そのような言葉に触れることが不可避の媒体から自らを疎隔した。 「現実」という形質をもった表現体のソースコードにあたるようなものが「言葉」であり、言葉の頽廃をみればもう「世間の現実」のこの先は明るくないことが明瞭に見てとれてしまうからだ。 ソースコード然り、それはエラーだらけのアウトプットをかならずや生み出すにちがいない。否、もう生み出され続けている。 自身の現実は自身の言葉によってつくられる。 ひきこもるべきは自らの軸を支える言葉の次元であり、言葉が現実の橋頭堡だと考える。

(前略)私たちは言語的動物であって、かならずや言葉というものを使ってしか文明も文化も技術も組み立てられない。つまり人間はホモ・ロクエンスである。そして、言葉はかならず過去からやってくるのである。私たちは新産業革命だのハイテクだのという表現で新世紀のことを語っている。ところが私たちは、未来の言葉で語ることはできない。五十年後の未来について語ろうにも、五十年後の言葉を知らないのである。反対に、私たちがいま使っている言葉は、五十年どころか百年、千年、たっぷりと過去を引きずっている。(中略)
 価値というものも、あるいは道徳というものも、言葉によって形を与えられるものである。過去の死あるいは過去との断絶とは、極端な言い方をすると、私たちが言葉を失うこととほぼパラレルである。「退屈の柩」とは、私たちが言語的動物として、一種の失語症的な状態に陥ることだといってもいい。
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西部邁『大錯覚時代』新潮社、1987年。

やれ次のガジェットは8Kだの16Kだの、通信は5Gだの6Gだのといった技術的進歩をもってのみ文明の進歩とする以外に何の進歩も見出だせない、精神的進歩も価値的進歩も途絶えた末期的な文明の景色として、退屈そうな瞳でスマホを眺め、バックライトの青白い光で顔を炙る人の列がある。 それはすでに「退屈の柩」のなか、精神的あるいは価値的活力を失った死人の顔といえるのではないだろうか。 そしてそのスクリーン上で交わされる、本来の形を歪に変形させただけの巧拙すらない児戯のごとき言葉の数々。 ホイジンガーのいう文明の小児病(ピュエリリズム)というのは、同書よりさらに遡る30年代の警鐘だというから、古い書物を読むのもなんだか怖くなってくる。

人はこの先、蒸発してしまった「価値」というものをまったく異質なものにすげ替えて、それを「価値」と称して生きていくのだろうが、はたしてそのような自己欺瞞が、いったいいつまでもつものだろうか、私は疑問に思う。 児戯のような言葉遊びに刹那な気晴らしを見出すピュエリリズムは、過去という寄る辺を失い、言葉との精神的な繋がりを失った人々の悲愴な手遊びのようにも見える。 言葉を安易に弄るということには、そういう病理が裏にあるのではないだろうか。 その本質は、たとえば安易な遺伝子組み換えのようなものへも繋がる。 これらはセミオクラシー(記号による支配)の顕れではないか。 言葉を過去から剥離させてしまったように、DNAという言語を自然という過去から剥離させてしまう行為。 そうして人間を超越の次元から剥離させていく運動である。 そこに現出する世界とは、無価値、無精神、無感情の、単なる記号的言語によってRUNするテクノゲーム、マネーゲームであり、人間不要不在の世界である。 それこそが「退屈の柩」がついに完全に閉じられる、人間の埋葬の時であろうと私は思う。

私たちが本当に欲しているのは、いかにして生きていかにして死ぬかということにかかわる、やはり価値観といわざるをえないようなものにまつわる情報のはずである。今や誰の目にも明らかなことであろうが、そういう意味的および価値的な事柄にかんするソフトウェアは貧血症状を示している。それにはいろんな原因があるが、そのうちでひとつ確かなのは、現代社会がテクノゲームなりマネーゲームなりにあまりにも傾きすぎた結果として、人間の生をめぐる意味情報、価値情報が散逸させられているということである。
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西部邁『大錯覚時代』新潮社、1987年。
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