もはや風狂でええじゃないか

木漏れ日のなかの44年

「木漏れ日」といえば、むしろその「光」に思い馳せる、あたかもほのぼのとした光景だけれども、それを「人生」というものにまで敷衍して思えば、樹々の陰からわずかにこぼれ落ちてくる光、その光量のなかの日々という、陰と光のリアリスティックな印象へと変わる。 その基底は圧倒的な質量の樹木であり、光を遮る陰である。 その陰に穿たれた穴からこぼれ落ちてくる光は、さながら人生で感じることのできるかけがえのない幸せ、安らぎの瞬間のようでもある。 この木漏れ日のなかのような44年の人生を、ちょっとここらで総括してみようなどと思ったのは、私の場合、総括的行為は暦に準じた12月の終わりではなく、なぜかいつも11月の終わりあたりでその必要が訪れるというジンクスがあるためで、今年2019年はかつてない緊張感とインパクトを伴って、やはりその必要がおとずれたためです。

木漏れ日の森歩き44年で私が出した答えのひとつは、人間の本質は「不完全性」であるということです。 もっといえば、創造の完全性が「不完全性」というものを表現した、それが「人間」であろうということです。

自称万物の霊長であるというのは、何事も自称である時点で眉唾ものですが、それを標榜することでかろうじて保たれるかもしれない平衡感覚に必要な、不完全性の対極に置いた仮構の重りにすぎず、人間は万物の霊長などという、人類種として誕生以来一度もそれらしい論証も実証もできずにいる虚言と自己慰安によって自らを保っている、むしろこの地球上ではもっとも脆く悲愴な生命ではないのかということは、悲しいかな絶えず論証、実証されている気がするものです。 青筋を立ててつま先立ちで完全性を目指してはみるものの、力及ばず不完全性の素性に堕する、これが人間の歴史にも個人の生涯にもみるフラクタルなルーティンであり、神話や宗教などが伝え、定義してきた「人間」というものも、やはりこの「不完全性」が逃れ得ぬ帰結のひとつとなっているように思えると同時に、無限というものの物好きというか、その無限たる所以も表しているのが「人間」というものだと思えます。

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もはや風狂でええじゃないか

私がここでいう「風狂」とは、

【風狂】
世間の常識的生き方や価値観の俗悪さにがまんがならず,それへの強烈な反発,批判として,狂人と見まがうような奇行,狂態を演じること,ないしその人をいう
――
出典:株式会社平凡社/世界大百科事典 第2版

という、この一般的な定義に少しばかり加筆して、狂気のことでも風雅に徹することでもない、常識的生き方や価値観の俗悪さへのがまんをやめ、反発も批判もほどほどとし、半隠者として、この経済文明、または主流派ドグマからどれほどか距離を置く、あるいはレビテート(浮遊、levitate)した態度のこととしてみる。 それでもまあ、現在では世間の主流との間にできたわずかなマージンも狂態と定義されるところがあるため、大筋で意味は変わらないのだけれども。

絶え間ない世間の狂躁の源泉は、おそらく人間というものの本質に根差す不完全性と、それに伴う永遠の無知であり、馬鹿に付ける薬はないというのならば、ギリシア神話の医神アスクレピオスも「人間に処方箋なし」と言うかどうかはわからないが、私は「もう風狂でええじゃないか」と最後の笑みを浮かべて言う。

現在の主流派の一派としてのオポチュニズム(日和見主義、opportunism)は、私の洞察ではまず「地獄へのカラフルな敷石」であろうし、かといってペシミズム(厭世主義、pessimism)に拘泥することも、その敷石を踏まずに同じ行き先へ向かうことのように思える。

自分なりにより良く生きるとは、満額の望む状態からはかけはなれた、生と死がかぎりなく平衡した状態からの思考、態度、行為、表現、感情の内にあろうことを、突然もたらされた私の肉体的苦痛が示唆しているように思える。 そして私は風狂へのさらなる一歩を踏み出す。

人間は年をとるにつれて、いっそう物狂おしくなるとともに、賢くもなる。
――
ラ・ロシュフコー

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