エナジードレイン社会

エナジードレイン社会

ここでいう「エナジードレイン(energy drain)」とは、ゲームをする人なら馴染みのある言葉かもしれない、「エネルギーを吸収し、奪う」という意味で、瞬間的な苛烈さはないものの、しかしその効果はじわじわとエネルギーを流出し、衰弱していくという恐ろしいものである。 現在はどうもこの「エナジードレイン」の原因がいたるところに、ステルス的に、複雑に存在し、そこかしこで誰もがエネルギーを抜かれ奪われつづけているのではないかと思う。 それが結果的に、総体として、なんだか元気・覇気のない社会現象、光景に繋がっているのではないか。 単に寝不足や栄養不足、運動不足、個別に抱えたストレスといった個の原因のみならず、社会としてエナジードレインが蔓延る強固な構造が出来上がってしまっていることも、沈んだトーンの主たる原因のひとつになっているのではないか。 普段とくに強く意識しないような些末なことから、重要で決定的なことまで、エナジードレインの胞子はいたるところに付着し、隙あらば宿主からエネルギーを吸い取ろうとしている、そんな社会を「エナジードレイン社会」と名づけてみた。

与える(give)ことより
取る(take)ことばかりが先に立つ社会

消費税を上げる、社会保険料を上げる、その他いろいろ徴収します、なぜなら○○だからという、そういう「取る(take)」こととその理由だけが大々的に蔓延り、そこから「与える(give)」ことに関しては二言三言の説明にもならないような説明で、それが通ってしまう社会サービス残業として時間と労働力は「取る(take)」のに、「与える(give)」ことには触れもしない企業が蔓延る社会ネットでタダで視聴しているコンテンツなのに、あたかも代金を支払っている視聴者の権利のごとく、自らの主張を呑むよう相手の自由を「取る(take)」ことはすれど「与える(give)」ことはしないということが蔓延る社会結婚相手に職種やら年収やら容姿やら注文をつける、自らの要望を「取る(take)」ことには余念がないのに、では自分は相手に何を「与える(give)」のかを同等に扱わない結婚観が蔓延る社会、挙げればきりがない。

それらは「取る、求める」だけで「与えない」ものだから、エネルギーが循環せず、当然、国は衰退するし、労働意欲は失われるし、メディアは腐敗するし、幸福な結婚は減っていくというものだろう。 冬虫夏草なら漢方の生薬にもなるが、人間は奪い取ったエネルギーからたいてい、大したものを生み出さない。 逆に集合、巨大化したエナジードレインの胞子は人の世を暗くし、陰鬱な影を拡げることにしかなっていないような、そんな気がする。

イメージ

ギブ・アンド・テイク(give and take)は大自然にも見られる基本的なあり方のひとつだ。 たとえば、アブラムシは蟻に蜜を与える(give)ことで、天敵のテントウムシから守ってもらう(take)というギブ・アンド・テイク関係であり、オトヒメエビだってウツボのような大型魚類の外部寄生虫を掃除する(give)ことで食べられない(take)、共生というギブ・アンド・テイクの関係である。 これがもし、アブラムシが何も「与える(give)」ことなく、テントウムシから自分を守れと、自分の要望だけを「取る(take)」ようなことを蟻に命じたら、関係は成立せず、アブラムシはひょっとすると絶滅してしまうかもしれない。

自分以外の相手にたいし、相手から何か得たいこと(take)が芽生えたら、コインの裏表のように、同時に与えられること(give)を想像する、用意する、そういうアブラムシやオトヒメエビだって当たり前にやっていることをやらなくなったのも、人の世がこうもぎすぎす、ギクシャクしたものになってしまった原因のひとつかもしれない。 エナジードレイン社会とは、別の言い方をすれば、仏教でいう心の三毒「貪・瞋・癡(とん・じん・ち)」のひとつ「貪(自分の好むものをむさぼり求める貪欲)」の蔓延かもしれない。

わずかばかりのことでも得られた(take)と受け取る心が
小さな喜びを拡散(give)できる社会に繋がるかもしれない

先日、河原のそばのベンチに座り、音楽を聴きながら沈む夕陽を眺めていたら、その夕陽の下、歩くこともおぼつかない小さな子と、その前を音頭を取るように誘導する外国人の父親が、ゆっくりと、時間をかけて、私の視界の横軸を無事歩ききった。 私はほのぼのとした、ショートフィルムのような光景を見せてもらったと、父親に向けて小さな拍手の動作と、親指を立てて、ちょっとした感謝の意を伝えると、満面の笑顔で返してくれた。 私は一期一会の笑顔も得られ、美しい夕陽の熱も光も得られ(take)、相手にも小さな何かを与えられた(give)、虫やエビがやっていることの、ただの人間版である。 自らのテイク(take)の敷居を下げて、気の張らない、手軽に手の届くものにできたなら、ギブ(give)はなにも私財を削ってまで、喪失感を抑え込んでまでしなければならないほど重いものではなく、虫やエビにもできるシンプルで簡単なことになるはず。

互いに隙あらばエネルギーを奪う、そんな吸血行為にあけくれても勝者はなし、ただ疲れるだけ。 エナジードレイン社会の狂躁めいた競争にのめり込まず、自分というデザイン、セルフデザインに小気味よい余白(マージン)を設け、風のように抜け、流れるエネルギーのなかに生きたいと思うものですが、エナジードレイン社会でどのようにそれを実践していけるものか。