氷原の表現者 ロスジェネスタイル|彷徨サピエンス

氷原の表現者。
ロスジェネスタイルと彷徨サピエンス

私は1975年生まれの「ロスジェネ」といわれる世代。
そもそも「ロスジェネ」とはどういう世代なのか、当事者の視点や問題意識よりもう少しメタな視点から瞰てみると、それはどうやら太平洋戦争後の国内の戦後復興&成長スキームが状況の変化とともにじょじょに整合性を失い、所々に不適合の種子が散見あるいは予測されつつも、結果的にそれら潜在的であった不適合の種子がいよいよ萌芽し具体的に顕在化した、それら不具合への姑息的療法による混乱としわ寄せを、人生の初期設定期に被ることになった世代、といえるのではないだろうか。

不適合の種子が芽吹き、家屋の壁や窓を覆う蔦となり、もはや看過できぬ事態となって、慌てふためいてとられた荒削りな施策、研削の行き届かない「ばり(burr)」の付いたままのような情勢のなか、それがちょうど社会へ出るタイミングだったような世代――無論、完璧に行き届いたレッドカーペットを歩ける世代などないと思われるが――だろう。

社会への処女航海、港を出て早々、いたるところで裂傷を生み、その傷は肉体のそれとは異なり、回復や復元の時間は不確定のまま現在に至るような社会問題を生み出した。 そして、今やこういった問題は、過去に発生し、現在にまで長引くロスジェネ特有の問題、というわけではない。 少子超高齢化や経済の衰退への無策、重税化するこの国の基本トーンは、もはや世代を問わず「ロスト(lost)」状態を拡大再生産する流れに固定化しつつあるように見える。 **年~**年に生まれたからロストジェネレーション、ではもうない。 「氷河期」は多くの人にとって「明日」突入するかもしれない、「氷原と隣合わせの状況」を生きている、といえるのではないだろうか。 そのような状況で、宮沢賢治の言葉にインスパイアされるものがある。

誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である
──
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』

「ロスト(lost)」と隣合わせの「氷原」でこそ「表現者」でなければ幸福の内に生をまっとうできないとは私が常々感じ思っていたところであるから、宮沢賢治のこの言葉は、まるで80余年後を予見したかのような、現在への苦言でもありエールでもあるような、不思議な響きをもって真っ直ぐ胸に響く。 安定ポイントなき流れの速い、不規則なカオスの時代において、ホモサピエンスならぬ「彷徨サピエンス」となり、デザイン性・芸術性を備えた個人となること、ギター1本あれば存在感を表現できるスナフキンのようなスタイルが、私の今後の重要な基準の一部になると思う。

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イメージコンセプト:氷原で凍結し身動きがとれなくなったF-15。ジェットエンジンはその場でレインボーを描く。 F-15の運用開始は1976年、現在も制空戦闘機として現役であり、ちょうどロスジェネと同期となる。 戦中の零戦(三菱重工業、中島飛行機)の系譜は絶たれ、日本の空を守る機体がマクダネル・ダグラス社(現ボーイング社/米国)となり、日本が国を挙げてアメリカナイズしてゆく時代に産声を上げ、そして今、凋落する日本の氷原で沈滞の季節の先頭を歩く層となった「ロスジェネ」。 宮沢賢治のいう、芸術家たる感受、個性の優れる方面に於ける止むなき表現の必要性の突端にいるのは、私たちロスジェネかもしれない。

芸術家たる感受をなす、
個性の優れる方面に於て止むなき表現をなす必要性

宮沢賢治の言う、芸術家たる感受、個性の優れる方面に於ける止むなき表現の必要性は、今現在おかれた環境、文明と社会からくるものであり、従来的な職業的芸術家、表現者とはまったく異なるものと私は解釈している。 つまり、個人に備わった「特別な才能」を既存の職業的枠組で活かすというようなありがちな認識ではなく、人間誰しも有する特性を「価値化」することであり、「芸術的に昇華する」ことでもあると考える。

たとえば、無類の大食漢が、食費がかさむだけで良いことがない「大食」という特性を「フードファイター」という芸へと変容させ、消化だけでなく昇華もしようという姿勢・態度もまた「価値化」のレンジに含まれると考える。 別な言い方をすれば、自らが属する最適な枠組が世間になければ、その枠組を自ら創作する、ということでもある。 体制が提示、提案してくる枠組は今後ますます縦割り化&高速化していくおそれがあり、そのストリームに適合しない者、それが個性の優れた側面を活かせないような場合、自ら支流・傍流を創作しないかぎり行き場も逃げ場もなくなっていくのではないか。 そのためには「芸術家たる感受」「個性の優れる方面に於ける止むなき表現」はたしかに、かならずといっていいほど必要になってくるにちがいない、そう思っている。
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そうしてブラッシュアップされた個の芸術的特性をたずさえた者たちの間に交換価値が生まれ、いわゆる「ギグ・エコノミー(gig economy)」の自然な昌盛をむかえるのではないだろうか。 現状の「ギグ・エコノミー(gig economy)」の定義である「単発の仕事を請け負う働き方、経済形態」のような紋切り型の解釈は、社会保険料その他の負荷が増大するなかで、政府や企業の負荷分散目的の誤魔化しの方便に使われかねない、今にもそういう使われ方をしそうな危ういワードであると思っている。 そもそも「ギグ(gig)」という言葉の意味は、ジャズなどで、その場かぎりのセッションのために演奏者が集まるということで、そこにはそれぞれ互いにプロフェッショナルとして認め合えるスキルや信頼関係が前提としてあることを忘れてはいけない。 ウーバーイーツの配達に下請けの連鎖が生まれ昌盛しても、それを「ギグ・エコノミー(gig economy)」というには違和感があるということだ。

氷原で表現者となるために、 個性の優れる方面に情熱と投資を

これからの時代を生きる上で重要な投資先のひとつとして、自らの個性特性というものをリストから外すことはできないと考える。 自らが長じている個性・特性に時間やコストや意識といったエネルギーを注ぎ込み、芸術家たる感受、個性の優れる方面に於ける止むなき表現を実践することが、まさに芸は身を助くことになるのではないか。 トレンドの上に乗っているものは刹那に変化し生滅を繰り返す。 万華鏡のように千変万化する世の表層に反応して立ち回り続けるより、底流を流れる強く熱い動脈のリズムに軸足を置く。

たとえば今、プログラミングがトレンドスキルだとしても、個人の情熱、感情という拠り所なしに芸術家たる感受、個性の優れる方面に於ける止むなき表現を可能とする領域には達しないだろうと思う。 自らの情熱がたとえ今現在のトレンドにそぐわないとしても、軽視せず無下にせず、最も強い可能性のひとつとして大切に、その熱を信頼する。 そんな至って人間的なことが、「氷原の表現者」に求められる最初にして最大の要諦なのだと、私は思う。

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