グロテスク・シヴィライゼーション 文明の名に値せぬ社会

グロテスク・シヴィライゼーション

グロテスク・シヴィライゼーション――
奇怪にして異様な文明というタイトルをつけてみて、ではそうではない文明などあるものだろうかと考えるに、おそらくないのではないかと思う。 それは人間という生物が、その本質にグロテスクなものを胚胎した生物であろうと思うからです。 これはネガティブなことを言っているのではなく、そうしたグロテスクなものを認めることからの明察が、人間と、その文明や社会といった運動の絶え間ない騒擾と、我が身と心の間に、どれほどかの緩衝空間を作り出してくれると考えるのです。

ギリシャ神話に登場するイカロスを象徴する「翼」は、永遠に到達することのない理想(太陽)に向かって飛翔することと、墜落する定めのためのものであったとみるならば、蝋で固めた翼を持ったイカロスの姿は、絶え間ない不安定な盛衰のチャートを描きながら、そのうちに幕を下ろす、まさに人間という、落ち着きのない、懲りない運動を象徴しているように私には見えます。

そうしたイカロスの視点から鳥瞰すれば、地上は墜落、激突するお決まりのパターンのステージだと割り切れば、真綿が敷いてあるはずもなく、その定めまでのフライトをしばし楽しもうじゃないかと、大人の微苦笑も浮かんでくるものです。 最後は琵琶湖に着水して終わる鳥人間コンテストを楽しんで観られるのなら、そのように楽しめばいいのではないか。 破滅の水面ぎりぎりの飛行に興奮を覚えるような、マゾヒスティックであり同時にサディスティックなものから目が離せない、そういうグロテスクな生物が人間というもののようです。

「金だけ今だけ自分だけ」になりつつあるグロテスクな今の文明社会を、
お金に刷られた福沢諭吉はどう見るのだろう

今の社会のグロテスクさを演出しているもののひとつが、金に偏り過ぎてしまっているありさまではないでしょうか。 一万円札に刷られた福沢諭吉は、現在のこの文明社会をどう見るのでしょう。 非常に広角かつ統合的な福沢諭吉像を描いていると思われる、西部邁氏の著書『福沢諭吉 その武士道と愛国心 』を参考にします。

諭吉にとって「文明」の名に値せぬ社会とはどんなものか。私なりにまとめてみると、第一に衣食住の安楽はあるが自由に振る舞うための余裕がない社会、第二に暮らしの余裕があり、高尚な説を唱えるものもあるが、自由が旧制度によって妨げられている社会、第三に自由は実現されているが、暴力による支配という自由までもが許されている社会、第四に自由も同権も実現されているが、全体の公利も自国の何たるかも人間交際の味も知られていないような社会の四種である。
――
西部邁『福沢諭吉 その武士道と愛国心』文藝春秋、1999年。

福沢諭吉の「文明評」にはこのような基準があったとみなした場合、今の文明社会はじつにまずいことになっている。 というのも、「私の現在の視点」においては、4つすべて当てはまる「まごうことなき文明の名に値せぬ社会」ということになるでしょう。

無論、仮の基準ですから、断じて文明と認めない、というほど、そこまで極端に現在の文明社会をそしるつもりはありませんし、評価すべきこと感謝すべきこともあります。私個人としての幸福もあります。物事は常に立体的であり、視点は無限です。 ただ、先の4つの基準は、なるほどどれも正当性があると思われることから、公という概念を中心に置きつつ自分なりの解釈を加味したとして、やはりまっとうな文明社会とは言い難い。

ますますグロテスクになっていきそうな、
この文明の名に値せぬ社会を生き抜く態度

このグロテスクな「文明の名に値せぬ社会」を演出する金、そしてそれを用いたサディスティックな行為を権力側が振るい、マゾヒスティックな庶民がそれにあえぐというのが、私が即興で描ける風刺です。 色気もない、じつにグロい構図です。 このグロさを少し高尚なものにするために、どのような加筆が必要でしょうか。 人の態度は変えられない。変えられるのは自分の態度しかありません。 であるならば、私のような庶民は、まずはただあえいでいるというのをやめることからでしょう。 中年の男が息を切らしてあえいでいる姿というものは、自分も周囲も見たいものではないはずです。

つまり「闘志をもつ」ということではないでしょうか。 「闘(戦)」という概念にたいして、日本人のアレルギーは過ぎるように思います。 あきらかに中庸を逸した態度だと思います。 愛くるしい犬だって猫だって、ミミズだってオケラだってアメンボだって、危機の際には本能を顕にして闘うのです。 身体のなかでは、毎瞬、細菌やウイルスと免疫が闘い続けています。 家に強盗が押し入ってきて、財産を奪い、暴力を振るう行為も異常ですが、不戦の縛りでそれをただ眺めているとしたら、それも同様に異常ではないでしょうか。

ただ、重度のアレルギー疾患の方に向けて注解しておくならば、私がここでいう「闘志をもつ」ということは、強盗に伍する力の行使というような、単純で狭い意味ではありません。 精神という構造体において、必要で重要な柱のひとつ、基礎のひとつであるということです。 そこからの態度ということです。 ここで福沢諭吉の言葉を拝借しましょう。

イメージ
余輩の主義とする所は、戦を主張して戦を好まず、戦を好まずして戦を忘れざるのみ
/福沢諭吉
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西部邁『福沢諭吉 その武士道と愛国心』文藝春秋、1999年。

この態度は「闘(戦)」というものにおける、きわめて中庸的な態度であると私は思います。 その知性ばかりがフォーカスされる福沢諭吉ですが、剣術、とくに居合は入神の域に達していたというのも、技の根底にはこのような思想があったからではないでしょうか。 そしてこのようなバランスのとれた態度は、士魂に通ずるものであったのです。

剣豪であり示現流の流祖である東郷藤兵衛尉重位(とうごうとうべえしげたか)、その示現流の極意として、刀は抜くべからざるものという無益な殺生を戒めると同時に危急の際には迷わず無念無想に打つという教えが表裏一体としてあるのは、まさにそういうことではないでしょうか。

一切の「闘(戦)」を否定して尚、生を望むというのは、先の免疫の例え然り、道理を逸した矛盾といえないでしょうか。 人間という生物が、その本質にグロテスクなものを胚胎した生物であるということを認めることと、「闘(戦)」の中庸をとることは不可分なのだと考えます。 行き過ぎたアレルギーからの従順もグロテスクだということです。「パシフィスト(平和主義者、pacifist)」の本来の意味は臆病者・卑怯者だという言葉の意味の加筆、修正を行ってからでなければ、それは偏頗ととられても致し方ないということです。

人間に内在するグロテスクな性分が、いよいよあからさまに、最大の規模をもって席巻しようという文明社会の局面においては、「畏怖の均衡」によって当座のバランスを保つことが必要となることもある。 互いの腰物を確認することで生まれる均衡が必要なこともあるということです。 抜刀せず、しかし刀(闘[戦]の意)は捨てずという態度がなければ、健全に生き切ることなど至難の業ではないでしょうか。

「刀は抜くべからざるもの」を通すためには、毅然としていなければならない。ナメられてはいけない。 ナメられないことが、無益な「闘(戦)」を避ける最初の手立てであり、刀の手入れと鍛錬を忘れぬことが、結果的に刀を抜かずに済むという逆説的な事実を、庶民の隅々までが当たり前の文化として取り戻すことができれば、このグロい文明社会を、雀の涙ほどはましなものにできるかもしれません。

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