基準(criterion)錯誤が事態を危機化させる

恐竜は隕石の衝突による熱と衝撃で一匹残らず絶滅したわけではないはずだ。 その後の環境の大きな変化、生存のルール、基準クライテリオン、criterion)の変化に、生き残った恐竜が対応できなかったことが、再興できず絶滅に至った最終的な理由ではないだろうか。

本質的にはそれと似たようなことが、21世紀初頭、人類の文明社会で起きていると考える。 次代の地球上の覇者となった人間には、恐竜にはない高次脳が付き、自分自身を環境から客観視できる能力を得た。 状況、環境にたいし、生物としての身体構造はそのままに、「基準」の概念をつくり、それにもとづく生きる「態度」を恐竜のようにも小動物のようにもコントロールできる。恐竜にはなかったこの機能を存分に使わなければ、かつて環境激変の危機でそうであったように、恐竜と同じような末路をたどることになるのではないだろうか。

先に挙げた人たちの話は、現実に存在する人間がモチーフになっている。 彼らのような人と会って話す度に、その観念の「基準」が昭和の、当人らが幼少期、青年期に過ごした、あるいは思い描いた憧憬がそのままテンプレートとして使われ続けていると感じる。

それらは平成で既に有効に機能しないことに気づく機会があったであろうにもかかわらず、眼前の現実として、その懸隔を目の当たりにするまで惰性を信頼し続けた、放縦な態度を変えなかった、その思考の遅延としわ寄せが、ここへ来て一気に噴出しているようにみえる。 すべてをデフレや少子高齢化、国の舵取りのせいにはできないし、その極端な考えは事実ではないだろう。 まずは自身の「基準」に大きな誤謬がないか、観照することから始めるべきではないだろうか。 仕事・お金・家族・人間関係・健康といった普遍的な価値を「新たな基準」へシフトさせ、そこからの「新たな態度」から作用する現実に積極的に、建設的に取り組むべき時なのだと私は思う。 その移動、変化をすでに始めている人、遅々として反応の鈍い人、その差もまた格差同様すさまじいと感じる。 世間の大部分は、未だ旧い基準に属しているだろう。

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極点が移動することで東西南北が狂い、渡り鳥が目的地にたどり着けず非業の結末を迎えることがあるように、人の世は今、経済を中心に、極点が狂いはじめるような、そんなことが起こっているように私にはみえる。

金がすべて――金の価値が極大化した社会。 そんな社会で、では潤沢な金がなければ、知性で創意工夫、自らをリデザイン(redesign)、なんとかするしかない。 今の世の中、金か、知性か、どちらか駆使できなければ、禽獣の群れの中で過ごすような心境に、まっとうな精神が食い尽くされてしまいかねない。

基準(criterion)」は構造であり、文化であり、方向だと考える。 中庸を測り、秩序と良識の礎ともなり、判断、決断に際して重要な役割を果たす、この「起点」の改修と刷新、デザインに、ヴァンダリズム(文化破壊の野蛮、vandalism)が進む今、破壊の後の再生に欠くことができないものとして、個人として集合として、思考的、実践的に急ぎ取り組むべきだと私は思う。

今から約20年前、日本の未来は(中略)世界がうらやむと歌っていたアイドルグループの歌詞のようには、そうはならないだろうと思っていた。 私の場合、将来破綻するであろう「基準(criterion)」の仕事やら負債やら結婚話等は、若い内に禊(みそぎ)のごとく洗い清められていたようだ。 自力のみでは説明不可能なこのような流れ、縁に、それこそスピリチュアルな、守護を感じざるをえない。

とはいえ危機的時代はつづく。 自身の「基準」とそれにもとづく「態度」のアライメント・チェックは、これからも終生怠れないだろう。

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