その力はパワーかそれともフォースか

力の側面
パワーとフォース

」は大きく次の2種類に分けて考えることもできる。 それは内発的に生起する力と、外発的に生起する力。
内発的に生起する力は「内の力」であり、この力を仮に「パワー」(power)とする。
外発的に生起する力は「外の力」であり、この力を仮に「フォース」(force)とする。

内発的な力である「パワー」は純粋な必要性であり、意欲や喜びを生む。 たとえば、空腹時に食事をしたいという思いは「パワー」であるし、自発的に抱いた夢や目標、好きなことは「パワー」。 そしてそれが満たされることは、シンプルに喜びになる。 「パワー」由来のことには、めんどくさいとか、できればしたくないというような消極的な態度にはならず、常に積極的だ。

これにたいし「フォース」はというと、たとえば英語で「force to -」は「- させる、強制する」という意味になるように、「パワー」を抑制する力だ。 「働かなければいけない」「我慢しなければいけない」という消極的な思いや外界に端を発するエネルギーで、「力」の質が「パワー」ではなく「フォース」に傾いていくと、人は活力を失っていく。 「フォース」が満たされたときの反応は、「パワー」の時とは明らかに異なるトーンを帯びるものだ。 それは外界をチラ見して確認する必要があり、あるいは数値や文字に表された、変換された証拠を必要とする。

世間にはさまざまなハラスメントがあふれているけれど、それらはすべて「フォース」の力だろう。 「パワハラ」(パワーハラスメント)もここでは「パワー」ではなく「フォース」ということになる。 映画「スター・ウォーズ」の「フォース」も、ここでは力の暗黒面の呼称ということになり、光の側面は「パワー」という解釈になる。 そういった定義において、「フォース」はネガティブな力だ。 ダース・ベイダーの、あの素顔の顔色の悪さを見てほしい。 栄養失調のように見えるがそうではない。あれはおそらく「フォース」に染まった者のトーンだろう。 やはり人間は「フォース」より「パワー」に生きたほうが良いのだ、そう思わせてくれる。

パワーとフォースのバランス

2つの質のエネルギーのバランスをとるためには、外発的に設定する目標と、内発的に設定する目標のバランスをとる必要があるだろう。 世間一般ではこういうものらしい、それが普通らしいという観念からの選択は外発的な動機になるし、嫁に反対されて本当にやりたい仕事を断念することも、ファイナンシャル・プランナーの青写真にもとづいて人生行路を決めることも、他人との比較において生じる感情も、これらすべては「フォース」の側のエネルギーだろう。 ドグマや恐れを背景にしたエネルギーも「フォース」といえる。

「フォース」は水圧のように外から自分に向かってくるエネルギーであり、多くは外界の支配欲や、外界に自身の指揮権を明け渡した無力感と関係がある。 そしてよく見られるのは、そこからの圧壊をなんとか免れるため、本心の核からではない、似非の気晴らしで誤魔化さざるをえなくなり、価値の低い金の使い方をしたり人間関係を作ったりして、さらに自身のパワーレベルを低くし、「フォース」の深みにはまっていくというストーリー。

ただ、世知辛い世の中、蔓延しているのは「フォース」のほうであるし、あらゆる「フォース」とかかわらずに生きていくことはほぼ不可能にちかい。 そのため、それと伍するような影響力をもつ内発的な力「パワー」をバランサーとしてもつことが、外から圧してくる「フォース」に抗するものとして必要になる。 とくに「フォース」が増大する傾向にある昨今、それがなければ「フォース」に潰されてしまう。 夢中になれる趣味や目標をもつ人間にみる、どこか健康的な活力のようなもの、内発的欲求、情熱という内燃によって動くさま、それがまさに「パワー」の効果というものにちがいない。

「フォース」と「パワー」には月と太陽ほどの懸隔があるため、「フォース」から受けた10時間分の影響を、1時間分の「パワー」が消し去ってくれるというのはざらにあることだし、思い当たる節があろうかと思う。 自分にとっての「パワー」が何なのか、それを周囲度外視で素直に見つけ、エネルギーバランスのためにも幸福感のためにも、積極的にそこへ繋がりたいものだ。

パワーに向けて

「パワー」と「フォース」はもともと同一のエネルギーと仮定する。 それが「パワー」と見ゆる「視点」においては「パワー」として機能し、「フォース」と見ゆる「視点」においては「フォース」として機能する、というものではないだろうか。 つまり、「それ」は自分にとって「パワー」なのか、「フォース」なのか、ということを自分の視点から都度、判断しなければいけない。

視点、定義が力の質の分岐点になる以上、人間の意識、意思がそれを決定することになる。 たとえば、やりたくてやっている腕立て伏せは健康的で、心身ともに「パワー」の質となるけれども、罰としてやらされるような腕立て伏せは苦痛で、心身ともに疲弊する、その力の質は「フォース」になる。 その都度、その事物について、白紙のレッテルにどういう意味を書き込むかにかかっている。 「愛」というものひとつとっても、そこに「ろくでもない世の中で、唯一信じるに値するもの」と書き込めば「パワー」に、「その裏には常に打算と謀略が潜み、この世でもっとも疑わしいもの」と書き込めば、愛ですら「フォース」の存在になる。

パスカルが『パンセ』のなかで宇宙についてそれは無限の球体であり、中心はどこにでもあるが、円周はどこにもないと語っているこの言葉から想像すれば、「人みな人生の主人公」というのは真実であり、自分の軸で生きるということは、無限の球体の中心としての自覚をもつ、責任をもつ、ということもできる。 無限の中心としての自分を受け入れる、認めることが「パワー」の原点であり、「パワー」を基軸にして生きるということは、大いなる力に身を預けるような、そういう人生のようにも感じられる。 なぜなら、自分の内発的な力、素直さや直感を信じるということは、権威や他人の論理、自身のこだわりすらも、時にそれらをあっさりと捨て、それらより優先するということであるから。

たとえ死の間際まで勉学に努めたとて、人の知など、所詮、無知の海に浮かぶ一片の流木にも満たないのだと悟れば、じつは出処不明の「パワー」に委ねることは、けっして無責任でもなければ、むしろ無知を知った末の英断のひとつともいえるのではないか。 とはいえ、世知辛い世に降り立った、頼りない人間の一人であるから、「フォース」に尻を叩いて急かしてもらわなければならないこともあるけれど、齢44歳に至り、自ら光を発して輝く夕陽に憧憬の念も重ねながら、人生折返しのリターンジャーニー(return-journey)は滋味あふれる「パワフル」(powerful)な旅路にしたい、と思う筆者であった。

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