202X サバイバー

格差社会から剥き出しの収奪社会へ

これを書いているのは2019年9月下旬。 複雑怪奇な軽減税率などという尾ひれを付け、庶民の疲労困憊の極みで放たれる10%消費税増税は、過去最悪の増税となるであろうと生活感覚から予想するに、訪れる秋の気配は、まさに日本の永き秋冬の季節の本格的到来を思わせる。 今後は「格差社会」という幾分誤魔化しを効かせた言い回しから、もはやオブラートも溶け切った苦味剥き出しの「収奪社会」と改めるのがよいのではないか。 今起こっていることを私のいる地点から俯瞰するに、国家という「家」において、そこに住まう者の「口減らし」が行われているようなありさまか。 働いて稼げない幼子や稼ぎの少ない者を納屋か外にでも追いやり、豪華な手土産を持って訪れる一見の客を「おもてなし」で迎え入れ、母屋はただの金勘定の場と化した。 そこにはもう団欒はない。金になる物から売り払われ、もはや「家」ではなくただの「賭場」だ。 家を失った住人に必要なのは駆け込み寺か。しかし残念ながら、現代の日本にはその駆け込み寺もない。 野蛮な荒野で生きていくためには、母屋で温かい汁をすすっていた時のことは忘れ、生白いやわな足ではない、固く尖った蹄の足に変える決意が必要だ。 先に荒地を歩き慣れ、皮膚が固く丈夫になった者が先発優位となる、そういう時代になったのだと思っている。

ウロボロスの竜。
現在は一周したパターンの再来か

荒地に一歩を踏み出すことは、より大きな不確実性への一歩でもある。 そこにはいくばくか行き先のよすがとなる磁針が必要になる。 未来予測はたしかに必要ではあるけれども、それは常に不確かな風に吹かれており、 将来これが流行るだろう、このスキルが花形となるであろうなどと予測してみたところで、そうなるかどうかはわからない。 現代はとくに、その確度が低いと考える。変化が早すぎ、複雑すぎるからだ。 そして現に、そうした未来予測ははずれてきたという体験済みである。 なので、未来予測のレーダー範囲はほどほどに狭め、私はむしろ既に現実として存在したことをより参考にするよう、磁針にするようにしている。 本でいうなら古典がそうだ。 今、2019年現在に起こっているパターンは、酷似するパターンが過去にもあった。 私の考えでは、それは20世紀初頭にもあったし、過去を当ればそれ以外の情報にもたどり着くことができる。 マキャベリも言っているように 過去に起きたあらゆることは、再び起こると信じるべきだ というのは真実だろう。

「新しいもの礼賛」のモダニズムにおいて、古典のようなものを「埃を被った古くて使えない情報」とし、極度に単純化された直線的時間概念から、その情報を省みないというのは、それこそ不確実性の夜の海に飛び込むようなものであり、今この時代に知るべき情報をいたずらに切り捨てることになると考える。 文明・文化が再び野蛮なほうを向き出したのは、「ウロボロス」(ouroboros, uroboros)の竜にみるような、一周したパターンの再来だと考えれば、今、古典を学ぶ価値は最大化している、ともいえるのではないだろうか。 「過去」とは、それとは異なる着地点を見出すのに欠かせない「ゴースト」(ghost)のようなものでもあると考える。 そもそも人間はいつまで経っても大して変わらない「懲りない生き物」だという前提に立てば、「いつかの現在」は「今此処の現在」に往々にして関係し繋がっているのだと私は思う。

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衰退と凋落から復古するもの

先述のとおり、これから(これまで)のもっとも大きな流れ、世界のトレンドは変わらず「収奪とその激化」であり、それが変わることはしばらくないと思われる。 格差拡大とは収奪の激化ともいえる。 まさに、1%の無可有郷(ユートピア)を99%の逆無可有郷(ディストピア)が支えるような、そんな構造が21世紀前半の、人類種の基本的社会構造となりつつある。 そのなかで、私のような庶民が生きる世間という「場」に、どのようなポジティブなアイデアが持ち込めるだろうか。

たとえば、書出しの「消費税」にからめていえば、悪法もまた法なりで通ってしまった消費税増税と奇妙奇天烈な軽減税率で、外食(店内飲食)は厳しい状況になった。 これにより、テイクアウトが増えるなか、たとえば外部の持ち込みイートイン・スペースに付加価値を付けた「場の提供サービス」にアイデアの火口を探してみる。 サロン的な社交場として、ただの飲食持ち込み可スペースではない、場の目的とターゲット設定をし、サービスとして付加価値を創出できれば、利用料や有志によって維持・運営できないだろうか。 かつてはブルジョワの談話の場であったこういった風習を、すっかり失われてしまった今の日本の庶民のリアルな知的コミュニケーションを生み出す場として、スマホの電源をオフにし、フェイス‐トゥ‐フェイス(face-to-face)のコミュニケーションを復古させることは、もしかすると、歪な増税を行うような政府を生み出すもととなった庶民の知性の変化に繋がるかもしれないと想像するとともに、古き時代にインスパイアされたポジティブな過去還りだとも思える。

これまでの経緯を鳥瞰するに、私自身の経験を振り返るに、結局、現時点のテクノロジーレベルの電子デバイスを介した情報のみの交流形式は、人間のコミュニケーションを完全には移転できず、その多くは指先ひとつでダウンしてしまう脆弱でセミリアルな関係しか築けないのではないだろうか。 結果、数では大勢であっても、イワシの群れのような生態系の下層で一匹の捕食者に翻弄される「マス(塊、mass)」であることに、実践的で効果的な大きな進歩も変化ももたらさなかったのではないか。 そう考えると、人はまだまだ会う必要がある、という考えは捨てきれないどころか、追い詰められた今こそ称揚すべき行為なのかもしれない。 ちなみにこれは想像だが、むしろエスタブリッシュメントのほうがリアルコミュニケーションを重んじ実践しているのではないだろうか。 だとすれば、イワシがバラバラの塊で、連携したサメに抗うことなど、不可能な道理ということになる。

巨大な蟻地獄のような、流砂のごとき社会において、中長期的には胴元の階級以外、遅かれ早かれこのゲームに強制的に負けさせられる、そういう賭場に居るのだと俯瞰すれば、スマホを見る時間のうちのいくらかを、人の目を見る、目を見て腹から言葉を交わす、そういう時間に変換することが、じつはサバイバルへの投資になるのかもしれない。

ディスカバリーチャンネルのエドやベアによれば、サバイバルの基本は、#水(water)、#火(fire)、 #基地(shelter)、#食糧(food)の4つだが、それは砂漠やジャングルにおいてであり、さまざまな諸問題を胚胎した国内社会という環境ではさらに、#人と人の実体的な繋がり(relationship)、#技術の利用・再利用・カスタマイズ(reuse&customize)、#小域の自律性(autonomy)が不可欠になってくるはず。 コミュニケーションの場をネット空間から再びリアル空間へと引き戻すような運動が、とくに都市部以外の地域では必要に迫られ起こってくるのではないか。

テレビドラマについての感想を述べ合うこともいいし、SNSのピーチクパーチクも日常の色彩のひとつとしていいけれど、それと同列で、そんな自分たちの安寧の基底を成す事柄に意識をやる、少々長めの言葉を交わすことも必要ではないか。 スクリーン越しに入ってくる娯楽についてのみ語るための思考であれば、勉学など一生必要ない。 しかし居間で笑って寛いでいる間に、その下で家の基礎がシロアリにボロボロにされていては、あまりに滑稽というものだろう。

生存と実現可能な幸福に資する知の復活

勉学は、いい大学に入り、いい会社に勤めるためにすることではもはやなく、生存と実現可能な幸福のためにすることである、という学びの本来性の復活と、行き過ぎた収奪からのモダニズムの崩壊。 そこから再び始まるかもしれない、サブスタンティブなコミュニケーションの某かのきっかけとなるよう、これからも日々何かを知り、何かに気づき、言葉の種を蒔き続けようと思う。

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