新聞を信頼する日本人

新聞を信頼する多くの日本人

これを書いているのは2019年9月。 やっと去ったか、去ってくれたかと思っていた矢先に残暑が完全復活、朝夕、少しばかり肌に感じた秋の気配は微塵もなくなった。 うんざりするなか、興味深い記事を読んだので、シェアしたいと思います。

京都大学大学院教授で表現者クライテリオン編集長も務められる藤井聡氏の記事で、『表現者クライテリオン|オフィシャルHP』上で原典を読むことができます。
表現者クライテリオン|【藤井聡】残念ながら、「信」は時に「悪の暴走」をもたらすのです。

肌で感じてわかってはいたことですが、日本は令和になった今も変わらず「大本営発表」は続いているようです。 『World Values Survey』というサイトで公開されている情報で、「新聞をどれくらい信用していますか?」という質問をG7各国で行った結果、「強く信用している/信用している」と回答した割合がグラフにされています。

「お。旦那。タワーマンションでも買うんですかい?金がないとか言いながら、旦那も隅に置けねえなあ」
「おい。よく見るんだ。これは日本人が新聞を信じている、下手すりゃ家族よりもこよなく信じているってことを見せつけられるグラフだよ。ちなみに金は本当にない」
グラフ 転載の許可を得ていないので、出典を元に描き起こしてみましたが、タワーマンションの絵では断じてありません。 見てください。新聞を「強く信用している/信用している」と回答した日本人の割合が、それこそキング・オブ・タワーマンションのようになっているさまを。 これは言い換えれば、日本において新聞は他の国に比べ、圧倒的に強力な世論形成媒体であり世論誘導媒体であることを意味しているといえるでしょう。 それこそ新聞に「私がタワーマンションを購入」と書いてあれば、約7割もの人々がそれを信じるということです。 「あるか!そんな金!」という事実無根のことが、信じられてしまうということです。 これは恐ろしいことです。 新聞と、テレビ。たった二極の媒体を情報的に制圧すれば、国の大多数の人々の意見や考えを操作できるというのは、ゆるやかに独裁的であり、カルトじみてもいます。

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令和になっても大本営発表

「大本営発表」と調べると、

大本営発表とは、1937年11月から1945年8月までの期間、支那事変および太平洋戦争において、日本の大本営が行った戦況の公式発表である。 初期は割合正確だったが、作戦が頓挫した珊瑚海海戦の発表から戦果の水増しが始まり、以降は戦況の悪化に関わらず、虚偽の発表を行なった。
――
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

とありますが、ここで注意したいのは、「状況が不利になるとともに、情報に水増しや虚偽が入った」という部分です。 水増しや虚偽がより効果的に機能する局面といえば、大抵「状況がまずい時」だというのは、人生を振り返れば誰でも思い当たる節があるのではないでしょうか。 寝小便をしてしまった子供が、それを大量の汗だと言い張ったりするのは、不利な状況、まずい状況をなんとか誤魔化そうという思いから虚偽を使うのであるし、逆に自分が良いことをしたにもかかわらず、それを他人の手柄として譲るような殊勝な虚偽は稀で、水増しも虚偽も良くないことに使われるというのが世間の通り相場です。 そしてその水増しや虚偽が見破られ、危うくならないようにする、あるいは見破られたとしても、それを押し通すには、「数」が有効になります。 圧倒的多数が「カラスは白」だといえば、空気に敏感な日本人は「カラスは白」だとなるでしょう。 つまり約7割もの人間を掌握してしまえば、残りの約3割は封殺できたようなものです。 であるならば、もし新聞に水増しや虚偽があった場合、「嘘と数」によって国の舵取りが行われてしまう、ということでもあるのだから、やはり恐ろしいことです。

ところで、今の日本の状況はどうでしょう。万事上手くいっている状況でしょうか。 否、私はその真逆だと思っています。つまり状況はきわめて悪く、戦時においては作戦が頓挫したような状況だと考えます。 であれば、今はまさに「水増しや虚偽の使いどころ」の状況だということです。 そんな状況下での、見ず知らずのお上から垂れ流される情報を、口をあんぐり開けてガブ飲みしていて大丈夫なものでしょうか。 大丈夫なはずがないと、私は思います。 しかし残念ながら、新聞をそこまで操作する側の人間にとって有用な媒体に育て上げてしまったのは、国民一人ひとりの「意識」であると思います。 人が思いどおりにできるのは、せいぜい自分自身の心、意識状態ぐらいしかないのが世の常だと思われますが、その自分自身の意識にすら責任を負わない、人任せという、なんとも絶望的ともいえるような事の本質が、このグラフに見事に表れているといえるのではないでしょうか。

情報文明においても優位を保つ、
アングロサクソンの情報リテラシー

グラフを見ていて気づくもうひとつのことは、いわゆる、白人圏が総じて新聞をそれほど信用していない、ということです。 現代文明は情報が地球をすっぽり包み込み、競争社会で先制するに際し、まず情報を制する、という流れになっていることは、広く状況を見渡してあきらかでしょう。 新聞というものは、その国や地域の情報リテラシーを測るものさしのひとつであるとするならば、与えられた情報を鵜呑みにする、信頼するという日本のデータにみる事実は、世界的競争において不利になることはあっても有利にはたらくことはまずないのではないか、と思えるのです。 「新聞」への信頼が、各国の平均を倍以上上回るという国のデータを、もし競合する国や地域が知れば、その国の新聞をものにしようと考えるのが普通ではないでしょうか。 おまけにそれは苛烈な物議をかもすことなく、ゆるく、日常のなかに溶け込み、ステルス戦闘機以上に感知されにくい戦略や戦術として使えるはずです。 21世紀の文明社会において、情報に弱いということは、それが国家としての弱さに直結するということが言えるのではないでしょうか。 「新聞」を信頼してやまない日本人、そんなことで大丈夫なのか。

新聞の発行部数は減り続けている。
しかしネットがその代替機能となりつつある?
情報の傀儡にならないためには、複眼的視点を自ら養うしかない

新聞の発行部数は減り続けているというデータがありますが、ではそれによって日本人の情報リテラシーは多少なりとも高まっていくかといえば、そう単純ではないと思われます。 新聞は主として高齢者向けの世論形成・世論誘導媒体としてテリトリーが特化するだけで、若年層向けにはネットがその代替機能を拡張させていくのではないでしょうか。

畢竟するに現代の情報社会を生きる上での要諦は、私もいつも思っていることですが、「複眼的であれ」ということに尽きるのだと思われます。 「四角錐」という形は、真上から見れば四角、真横から見ると三角、斜めから見るとひし形に見え、単一の視点では真実の「四角錐」という認識には至れません。 それと同じで、情報というものも、単一では機能しないものだという前提があれば、ポストに運ばれてくる一新聞社の情報では満足出来なくなるであろうし、そもそもそれでは自身の疑念を晴らすことができないでしょう。 人は欲し求めなければ行動には移さないものなので、日本人を新聞依存症から回復させるには、新聞を信じたばかりにひどい目に遭う、というようなことがその身に起こる荒療治でなければ、もはや不可能かもしれません、と書いたところで思いました。 ひどい目に遭っても信じついていく、ペーソスに満ちた恋愛劇がこの世の中にはあることを。 百歩譲って、恋に盲目になるならまだしも、悪意に盲目になるのは、もう、今すぐにでも、やめにしませんか、ということをため息混じりに言って終わりたいと思います。

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