思考バランス

思考は形作られる

食事のバランスというのは、自分で選んで買ったり注文したりすることから始まって、目の前に現れて、口に運んでと一部始終が可視化されたプロセスなので、ジャンクフードが続いた時は、こんなものばかり食べてちゃいけないな、などとバランスをとても自覚しやすいものです。 しかし「思考」となるとそうはいかない。 自分が昨日と99%、ほとんど変わらない思考で生きていることに気づかない。 せいぜいマンネリを覚える程度で、体調などにもとくに影響はないものだから、バランスなど意識しない。 それで知らず識らず際限なく思考が偏っていって、凝り固まって、見えないながらもしっかりとした「形」を成していく。 それがある時、ある状況に出くわし、「形が合わない」というような事態を経験する。 長年かけて真珠のように出来上がったその「形」は、ちょっとやそっとじゃ変えられず、にっちもさっちもいかないその状況を「人生の壁」などと言ってはみるものの、よくよく考えてみればたいていの場合、そこに「壁」などなく、ただその状況に自分の「形」が合わないということで立ち往生しているだけだということが、40年そこらも生きていれば、いやでもわかってしまうものです。 壁のせいにしたほうが楽だから、そうしてしまうのです。

鍾乳石なんかを見ても思いますが、同じところに一滴、一滴と石灰分を含んだ水が垂れているだけで、幾星霜を経てあのような石筍が出来上がるのですから、継続は力(エネルギー)と考えれば、思考とて例外ではないという想像がつきます。

情報には「位置性」がある

情報には、物事の正価値に焦点を合わせたもの、負価値に焦点を合わせたもの、そのどちらでもないもの等、+プラスと-マイナスの線上の「位置性」があります。 多くはここで偏りが生じて、思考バランスはある方向へ傾倒していくように思います。 そして人というものは、傾いた側(より強く信じている側)へそれを補強・増強させるような情報をさまざまな情報のなかから無意識的にフィルタリングし、選び取り、天秤の傾きをエスカレートさせていく、そういう傾向があるようです。 これは自身のなかにも他者のなかにも見られます。

たとえば普段、こんなふうに無意識的にフィルタリングしてはいないでしょうか。 自分が良く思っていない事柄について、ある人がその事柄に批判的な意見を述べたとします。 そうすると、たいていの人は、 「だよね?やっぱりそう思うよね?私もそう思っていたところなんだよ」 というように、自分のなかで傾いている側(信じている側)への情報は真綿が水を吸うように受け入れ、自分のなかに取り込み、その考えを補強・増強します。 そしてその逆、自分が良いと信じている事柄を否定するような意見には、 「この人はわかっていない」 といって、フィルタリングで弾き返すのです。 考えの違いというものはあるべきで、違いを違いとして認めることは大切です。 ただ、それを見もしない聞きもしない、門前払いするような、違いそのものを否定することは、思考のバランスに影響してくるといえるでしょう。

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+プラス、-マイナス、意識してバランスよく収集、
零(ニュートラル)で思考する

私は思考バランスを意識した上で、「カウンター本」と個人的によぶ、先に読んだ本と真逆の位置にある本を意図して手に取るようにします。 たとえば「少子化が招く危機」に関して書かれた本を読んだら、次は「少子化こそチャンス」というような本を選びます。 これがじつに面白い。

イメージ ネガティブな情報収集のみ行った場合、傾きが生じ、傾きが大きくなるほど信頼も強くなる。 イメージ カウンターとしてポジティブな情報収集を行った場合、拮抗し、信頼から迷いが生じ、そのため自身で再構築する作業が生まれる。

書籍というのは多くのネット上のテキストと違い、書籍というかたちになるまでに精製工程があるものです。 著者がその本旨を表現するために、さまざまな参考文献やデータをかき集め、時間をかけて検証し、言葉を慎重に選んで編纂されたもの、それが書籍というものなので、私がここに書いているような文章とは精製度のレベルがちがう、どれも一定の説得力があるわけです。 それらはとても役立つ情報で、相反する内容の場合、両極が拮抗する。 罵詈讒謗の言葉ごときではそうはならないのです。 そしてそうなることで迷いが生じます。一度、思考が零(neutral)へもどる必要があり、そこで主観を構築するために脳みそを充血させて考える。 水と油の混濁したような状態から、主観で再構築していく作業。 この時、思考のバランスは、偏った情報を鵜呑みにして片側へ大きく傾斜した「形」ではなく、柔軟性(フレキシビリティ)をもって揺れながらバランスをとろうとする「形」になっているのではないだろうか、と想像してみたりするのです。 身体においてもそうですが、思考においても、微動だにしない水平のバランスを保つことは現実的には困難で、俗人には無理がある。 むしろある程度の「あそび」、急激な力の及ぶのを防ぐためのゆとり、揺れながらバランスをとるといったような状態が現実的に望ましいのではないかと考えます。

零(neutral)からの主観の再構築、リバランス(再調整、rebalance)の目的は主観の座標を求めることであり、右顧左眄して中間の位置(機械的中庸)を探すことではありません。「私の言葉」「私の考え」にたどり着くため、納得するための作業だと考えます。それは自らの「位置性」を知ることにもなります。

かく言う私も他人からよく「偏っている」と言われる人間です。 そういう他人からの言葉も、思考バランスを考え、自分のなかの思考の天秤に漏らさず乗せることはしていこう、そう思うものです。

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