黄昏に舞うもの

文明の没落期に流行るものが二つある。
一つは新興宗教運動の異様な高まり、
もう一つは技術への異常な熱狂|オズヴァルト・シュペングラー

1995年から現在までのおよそ25年間で、インターネットの情報量は100万倍になったらしい。 IBMは70ミクロンのコンピューターを開発しているらしい。 近い将来、AIは人間の脳を凌駕し、産業革命を超えるかもしれないほどの変化を人の世にもたらすらしい。 企業の時価総額ランキングは、これからAIとデータを扱う企業が上位を支配するらしい。

これらの事実が今、そして近い将来、私やあなたの人生に直接的に関与して、彼ら(企業)の右肩上がりの利益と同じように、幸福への加速の追い風になるものでしょうか。

私は1975年生まれですが、私ぐらいの世代はちょうどコンピューターなるものに個人が触れ始めた最初の世代だと思うのです。 革命的、爆発的に拡大していくテクノロジーの歩みを景観として見てきたので、コンピューターとはそういうものだ、ぐらいに思っているわけです。 1946年、世界初のコンピューター「ENIAC(エニアック)」と現在のスマホを比べてもそうであるように、コンピューターの変化というものは革命的とか爆発的とかいう表現が毎度のように当てはまる、そういうものなのです。

では、コンピューターが産声を上げた1946年から2019年現在、機械は革命的、爆発的にその能力を拡張しましたが、肝心の人間はどうでしょう。 人間はおよそ70年ほどのこの期間に、革命的、爆発的に進化したり幸福になったでしょうか。 私の立つ位置から見るかぎり、そうはなっていません。 相変わらずの世知辛さ、相変わらずの有り様が蔓延しています。 むしろ先端テクノロジーというものがますます社会の頂上、尖端のためのテクノロジーになっている気がするものです。 つまりテクノロジーの、その便益のもっとも本質的な部分はますますベールに覆われ、誤魔化される社会になっていっている気がするのです。 人間より高度な頭脳をもつ――といわれても私は眉に唾をつけて傍観していますが――高価なAIに、そのオーナーは何をさせるでしょうか。 金儲けをさせるでしょう。より精確なマーケティングで究極の販売効率を目指し、より管理し、より知り尽くし、その結果人々が幸せになったかどうかのデータもメディアを使って組み立てることができます。 もうデータを見せられたから、グラフを見せられたから、それで納得できる時代でもないのです。

ドイツの哲学者オズヴァルト・シュペングラー(1880-1936)は『西洋の没落』で、(西洋のみならずあらゆる地域の)文明は、春夏秋冬のような周期を経て、誕生、成長、停滞そして没落していくと予告しています。 そして没落期には流行るものが二つあるといい、一つは新興宗教運動の異様な高まり、もう一つは技術への異常な熱狂だというのです。 新興宗教運動というのは、なにも法人格を取得した宗教団体のことを厳密に指すものではなく、一世紀後の現在においては「そのような運動」と解釈するならば、シュペングラーの予告は気味が悪いほど当たっています。 それはスマホに顔面釘付けになった人間が目にする人の半数を超え、それは時価総額のトップグループに位置する企業や株主のテクノマニアック(技術狂)ぶりであり、それは列強の経済戦争にまで発展する技術の取り合いに見られます。 テクノロジーの革命的、爆発的な拡張がもたらしたものは、それに伴う人間の進化や幸福化ではなく、テクノカルトとでもいうような現象となって、流行り病のように世を席巻しているだけではないのかと、どうも疑わしく思えてきます。

シュペングラーは、そうした没落期の技術に熱狂した文明は、技術によって人間の精神や想像力、常識や知恵といったものがことごとくシステムに飲み込まれシステム化され、やがてはシステム自体が錆びついて停止してしまうと予告したのですが、2019年の今、見渡すに、すでに精神や想像力は相当食い尽くされている段階に見えます。 今後しばらくはシステムという祭壇に人が捧げた精神や想像力といった供物を吸い上げ飲み込み続け、システムは巨大化の一途をたどるのでしょうが、やがてシステムが錆びついて動かなくなるという現象は、精神の力を失いロボット化した人間の消極的虚無状態が引き金になるのではないかと、そんな気がするものです。

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技術への熱狂に呆けてきただけの歴史

今の技術の熱狂、そのホットスポットは、AIや量子コンピューター、DNAエンジニアリングといったものかもしれませんが、かつてはそれが蒸気機関であったり、電話やテレビであったり、あるいは原子力エネルギーであったりインターネットであったりしただけで、熱狂の本質は何も変わっていないことがわかります。 あるレベルから見たシンギュラリティ(特異点)的技術の位相転換のようなものは、歴史上、竹の節のように存在し、その都度、それらへの熱狂が何かこれまでとは別次元の、特別なもののように、どの時代の人間も感じていたのではないでしょうか。 扱う情報量だの計算速度だのが億倍、兆倍、京倍になろうとも、それは常にその時代のスタンダードであり基準にすぎず、人間にとってただの(技術)環境という意味を超えることはないのではないでしょうか。 それは月へ行くための計算をしたコンピューターとは比べものにならない高度な計算が可能な現在のスマホを持った人間が、公園で、青白いスマホのバックライトで自らの顔を炙りながら、『ポケモンGO』にいそしむ姿を見れば、おおよその推察がつくというものです。

黄昏に舞うものは、最後の熱狂か、あるいは――
人間の技術文明なるものが、常に秋冬の季節を彷徨うような運動であることを、歴史は伝えているのかもしれません。

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