ミクロとマクロの不都合な現実

「世界」とか「人類」といった言葉の多くは
プラスチックワード化している

世界」とか「人類」といった言葉をけっこう簡単に使ってしまいがちだけれども、じつは実体のない単なるイメージであったり、曖昧きわまりない概念でプラスチックワード化していることがある。 先日、駅前の本屋で昨今売れている本として目立つ場所にあったそれを手に取り、ざっと目を通してみたところ、データをもとに「世界」の正しい事実を知る、というものであったけれども、そこでもやはり「世界」という言葉が気になってしようがない。

その本によると、データを正しく見れば「世界」は良い方向へ向かっているらしい。 しかしそれは単純に私が、あなたが良い方向へ向かっているということにはならないと考える。 そういった本を読んで 「そうか。世の中捨てたもんじゃないな。なんだか元気が出てきたぞ」 とせっかくそう感じている人の気持ちを冷ますような無粋な真似はしたくないので、ここからは私と同様に「世界」という言葉にたいしていささか腑に落ちない、どうも釈然としないものを感じている人のみ読み進めてもらいたい。

「世界」という言葉の実体は何なのか

「世界」という言葉について、言葉の達士、西部邁氏の説明はこうある。

ともかくはっきりしていることがあります。それは、ワールドが「直接の関与が可能な空間」であること、したがって世界は「俗界」のことだという点です。世俗の世界、つまり「世間」がワールドなのです。(中略)このことを明瞭にしているのが(ワールドの形容詞である)「ワールドリー」(worldly)という言葉です。それは、明らかに、「世俗的」という意味なのです。
――
西部邁『昔、言葉は思想であった――語源からみた現代』時事通信出版局、2009年。

少年誌の漫画で、悪役の目的が「世界征服」だと言われても、私がそれにつべこべ言わないのはそれが少年誌の漫画であるからで、そうではなく、大人の会話で「世界」を頻用されると「ちょっと待ってほしい」と言うだろう。

地球の裏側の何億という人々のことは、数量的にデータとして表されても、直接の関与が不可能な、私にとっては純粋に「データ」でしかなく、そこから私の「世界(世間)」に反映できそうなことがあるとすれば、たとえばそうした地域に関与したマーケティング戦略や資料のエビデンスに用いるぐらいか。 惑星大の世間、活動・交際範囲をもっている人ならいざ知らず。 一般的に、ネットによって拡張されたといわれる「世界」とは、アクセス可能な情報、または情報の移転のことであって、それがそのまま直接の関与が可能な「世間」の拡張に反映されているわけではないのではないか。

つまり「世界という名のデータ」を正しく知ったところで、脳みその片隅に置いておく程度の、現実感のない、大して使えない知識ということになる。 現実の射程範囲外の、感覚の及ばない空間のデータを以って「世界主義」を礼賛などできないということだ。

イメージ

「世界」や「人類」を個人の現実に取り込むことは、
そう単純でも簡単でもない

直接の関与が不可能な空間のことも「世間」とし、自らの現実に取り込むことは、そう単純でも簡単でもないと考える。 「世界主義」(globalism)がデータにみるように、地球上のより広域の人々にさまざまな水準の向上をもたらしていることはあるだろう。 しかしそれはマクロな事実であって、個人の現実とは相容れないものがあるはずだ。 日本国内、私が生きる「世間」においては、少なくともそうだ。

イメージ 青い円は個人の直接の関与が可能な空間「世間」。ワールドワイドに行動する人は一握りであって、多くの人は仕事場と住居を含む一定の範囲であったりと、限定的な地域に根を下ろした現実を体験していると考える。 赤い粒はヒト、モノ、カネといった空間に展開するコンテンツ。この図では「100個」あり、それらが個人の直接の関与が可能な空間「世間」にまとまっている様子。 イメージ 赤い粒が倍の「200個」になり、より広域へと拡散した場合。コンテンツを享受できる人の絶対数は増えたが、青い円の範囲あたりのコンテンツ数は希釈され減った。

地球上全体の生活水準が向上し、貧困が減り、なくなることには大賛成だ。 しかし現在の「世界主義」(globalism)は視点が極度に単純化され、性急すぎるように私には感じられる。 先述の書籍のように、地球規模で瞰れば水準は上がっており、世界は一歩一歩良くなっているとしても、国や地域には非常に多くの人がいて、さまざまな複雑な事情を抱えており、そこをよく考え、慎重に、漸進的に行わなければ、多くの新たな葛藤や問題が生じるのは必定だろう。この場合「森を見て木を見ず」、全体に気をとられて部分や細部を見失うという、バランスを逸した遠視眼的視点といえるのかもしれない。さらにその性急な拡張主義、経済活動の裏側で、地球の環境破壊、惑星のホメオスタシスの破壊的現象もまた拡張しているとなればどうか。これなどは「今を見て先を見ず」ではないだろうか。

おまけに「世界主義」の正当性はほぼ、サービスとプロダクトという実体的な側面、枠の中でのみ完結して語られ、枠外にある価値的、精神的、文化的、哲学的といった、人間の生において実体と対を成すようなさまざまな内容がほとんど取り沙汰されないというのも、どうも腑に落ちないものである。

データから実体的な視点のみ読み取っただけの「世界」の幸福化に賛同し、人類愛を掲げ、ではその幸福化をさらに高速に推し進めるため、あなたの作った商品の価値を世界の平均を鑑みて下げることにします、と言われても賛同するだろうか。 「おいおい、さすがにそれはちょっと待ってくれ」 というのであれば、それは「世界主義」(globalism)ではなく「国際主義」(internationalism)だということになるのではなかろうか。

世界主義と国際主義とは互いに似て非なるものです。後者の国際主義は「国の際」がどんなものであるかに、つまり国際間の相違と葛藤にまず注目し、次にその相克をいかに調整するかに意を用います。それにたいし世界主義は、「グローバル・スタンダード(世界標準、global standard)」という言葉が頻用されたことからもわかるように、国際間の葛藤を消去せんとするものです。
──
西部邁『昔、言葉は思想であった──語源からみた現代』時事通信出版局、2009年。

「直接の関与が可能な空間」を「世界」と定義するならば、どこからどこまでを「世界」とするのかは個人によって大きく変わる。 そういえば、冒頭に書いた駅前の本屋で手にとったその本、「政財界の超大物が大絶賛」しているということだったが、彼らの「直接の関与が可能な空間」は一般人のそれとは比較にならないわけだ。 本一冊を共有したぐらいで結論まで共有できるかどうかといえば、そんな単純で簡単なわけがないと私は思う。

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