「当たり」少なきが世の常ならば

「当たり」が少ないのは世の常。
世の中の主成分は「ハズレ」で出来ていると思っている

2019年7月。梅雨は大の苦手だ。 一年でもっとも気圧配置に注目する時期であり、高気圧に期待する時期である。 「高気圧よ、もっとこう、自信をもって張り出してこんか」と叱咤したくなる。 そんな湿気むんむんの空気のなか、セミの声より参院選の声が前に出ている今日このごろ。 期日前投票は済ませたけれども、後のことには微塵の期待もしていない。

イメージ 西部邁『「世論」の逆がおおむね正しい』産経新聞出版、2012年。

選挙の話に絡めていえば、今回、もっともヘヴィーローテーションとなって叫ばれているワードはデモクラシー(民主主義、democracy)のような印象を受ける。 この「民主主義(デモクラシー)」なるもの。 「人みなそれぞれ、思うところ考えるところは違うもので、そんな等価な個の集まりを回していく落としどころは、公正さからいって多数決ぐらいしかないんじゃないか」 ということで渋々の帰結となったのがいわゆる「民主主義(デモクラシー)」だと考えていて、金科玉条、至高の帰結というわけではないと思っている。 ある意味、少数派にとっては「じゃんけん」で負けることより納得のいかない、腑に落ちないといった不協和を常に孕みつつ前進するものが民主主義というものではないか。

また、選挙中等に特に露出されるこの「民主主義(デモクラシー)」という言葉をステレオタイプに「民主主義=良いもの」と受け止める認識は極度に単純化され過ぎていて危うく、それはさながら単純に描かれた魚の絵が、大多数に魚と見えれば真に魚と認められるほど大雑把なものだ。 実際には、その魚の絵には内臓もなければ筋肉も神経もなく、魚としてはまったく機能しないものであることが、水に放り込んだり、いざ食す時になって顕になったりする。 そうした「大多数のイメージによる大雑把な決定」が世のメインエンジンになっているかぎり、正しいかどうかというのは二の次になるのは必定だと思える。 くじも世の中も、おおむねハズレで出来ている回っている、そういうもんだと思うぐらいがちょうどいいと私は思っている。

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知性の価値は時や場、情況で変わるもの。
機械的に等価と数えることは本来危険ではないか

『「世論」の逆がおおむね正しい』の西部邁氏の言葉がわかりやすい。

多数派が正しいなんて場面、おおよそ見たことがありません。少数派が正しいとは断言出来ないですが、比較的正しいものが確認出来るとしたら、おおむね少数派のほうです。しっかり考えるとか、しっかり振る舞うという人がたくさんいるわけないからです。正しい者は少ししかいないのが歴史の通り相場で、歴史が大事なのは、残されて蓄積されるのがその少しの知見だからなんです。
これは昔、175年も前にフランスの思想家、アレクシス・ド・トクヴィル(1805-1859)という人が言ったことでもあります。簡単に言えばアメリカン・デモクラシーはふざけていると。多数派原則について、こう言うんです。
「アメリカ人は、この多くの人々の間に知性が平等にまかれているという平等主義を想定している。多数派と少数派に分かれたら、足し算で多数派のほうが少数派の知性より多いということになる」と。
――
西部邁『「世論」の逆がおおむね正しい』産経新聞出版、2012年。

ここでのアメリカン・デモクラシーはそのままジャパニーズ・デモクラシーでもあり、トクヴィルの指摘はそのまま、現在外を賑わせている選挙活動中のスピーカーに疑義となって跳ね返る。 「時」や「場」や「情況」により、知性はかならずしも等価とはならない。等価としないほうがベターなことも山ほどあるものだ。 たとえば、私が自らの人生において何か重大な決断を迫られた時、私より優れると思われる知見に繋がり、参照し、そこから得たものにより考えを改めたり修正を加えることを意図する。 それは私自身の意見よりも、情況により、より確かな価値や効果があるものがある、ということを認めているからにほかならない。 また、無償で他者の助けとなるような活動をしている人や動物を嘲る者や、弱者を虐めることに快感を覚えるような矮小な者ですら、数で上回りさえすれば承認されるという、オクロクラシー(衆愚政治、ochlocracy)、あるいはカキストクラシー(悪徳者の支配、kakistocracy)という側面を孕んだ多面体構造のような道理がデモクラシー(民主主義、democracy)というものでもあり、しかしこのことは黙殺せざるをえない危険物でもあるという認識が、スピーカーの言葉なり選挙活動の映像なりからごっそり欠如していると思えてならない。 西部邁氏の言葉を拝借するならばこうだ。

仮の話ですが、日本列島で、この地域こそ世界の観光客を集めるまたと無い場所があったとしましょう。ただ、それが自然資源だとしましたら、人口は少ないわけです。でも、人口が少ないばかりに、この国家の大事な資源のなかに住んでいる人間に発言させないということにはならないでしょう。
仮に少数でも国家の命運を握っているよう人たちが、我が国の自然資源が、川が、山が、湖が最近どうなっているか、どうしてほしいのかを言うのは当然です。東京くんだりの汚い新宿で飲んでいる僕の10倍、100倍の重みを持って当然なんです。それを平等にせいなんて言っているのが今の日本社会だと思います。
──
西部邁『「世論」の逆がおおむね正しい』産経新聞出版、2012年。

結局、「民主主義(デモクラシー)」なるものも「凶」ではないが「末吉」ぐらいのセカンドワーストでしかなく、人類が思い描く高遠な理想郷に届く梯子にはおそらく、まずならないと私は思っている。 西部邁氏が 歴史が大事なのは、残されて蓄積されるのがその少しの知見だからなんです と語るとおり、我々は歴史という、ある種の信憑性ある解答集のなかに「多数派は往々にして誤ってきた」という事実を認めているはずだ。 それは科学や芸術にいたるまで、広く、その当時はまったく評価されなかったもの「少しの知見」が、後に大きな価値や真実へと修正された人類のログを嫌というほど見せてくれる。

しかし極度に単純化された民主主義は時に、その人類の解答集をまったくといっていいほど参照しないことがある。 それはある意味、操作する側からすれば非常に扱い易いものかもしれない。 数が物言う単純計算ルールなら、扇動し、より多数派をこしらえれば勝ちというゲームだ。 オセロのようなものと変わらない。 それは言い換えれば、より多くの人にとって都合の良い者が、より金を積み数を買収した者が、あるいは単に人気者が勝者となるゲーム。 それが一人ひとりが遍く主権者となった民主主義の帰結であり、限界ではないだろうか。

人間の存在そのものを解決不可能な存在として、
ゆるく眺めていくしかないのかもしれない

一切衆生悉有仏性、人みな等しく価値ある存在であるということは私も信じるところであるし、創造という運動は本質として人にとっての価値など超越したものであると考えている。 しかしここのところを人の世で、社会でどう実現、実践するのかと問われれば、私にはとても思いつかない。 人生もすでに折り返し、残すところあと何年、何日かはわからないけれども、そのような私という生き物からすれば、これはもう人間というものを私にとっては解決不可能な存在として諦め、ゆるく眺めていくしかないのかもしれないと思っている。

かまびすしい選挙活動中の皆さんの言っていること、どれも一理あると思うし、この国土に住む者として考え、それなりに吟味し、意思表示として投票には参加したけれども、やはり後のことには微塵の期待もしていない。

西部邁氏の言うとおり、民主主義(デモクラシー)では私の一票で誰かが受かり、誰かが落ちるという、ある種決定的な重みを持つ可能性は1万分の1もありはしない。 民主主義(デモクラシー)のハンドリングは「人」ではなく「規模」が担当している。 そういうルール、スタンダードでは、個人というものは観念の世界の住人であるほうが居心地が良いかもしれないし、これはもう、やはり、ゆるく眺めていくしかない、そう感じている。 「当たり少なきが世の常ならば」――ハズレを常とし、楽しむような、そんな胆力というか、ステゴザウルスの「脳が小さいため尻尾を叩いても気づくのに3秒掛かる」ようなほどほどの鈍感になる調整弁が必要なのかもしれない。

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