ある群れの行方

「群れ」の根底にあるものは
個の弱さと種の存続

学問はどれもそれぞれに面白みがあるものだとは思うけれども、生態学(ecology)というのもおもしろいもので、時に耳に痛いことも淡々と述べられ、純粋な知識として役立つものがたくさんある。

街を見れば、通勤・帰宅ラッシュの駅を見れば、ショッピングモールを見れば、人間はつくづく「群れる」生き物だと思う。 そもそも、この「群れ」とはどういうものなのだろう。

群れる目的は 「リスクを分散し、種としての残存機会を維持すること」 というのが基本のようだ。

現代の人間社会は、
個人は弱いものだとして成り立った「群れ」

一個体が不完全で弱い種ほど「群れ」の凝縮傾向が強まり、より高密度化する。 現代の人間社会においては、環境(社会)が複雑化するほど個体のバラツキが小さく単機能(専門的)であることが「群れ」としての効率化になり、いわゆる「縦割り化」が進む。 人間における個体のバラツキの小ささとは、能力だけではなく、モラルや信念の均一化も含まれるだろう。 いわゆる「出る杭は打たれる」「みんなと同じでないと不安」というのは、「群れ」のホメオスタシス(恒常性)のために、「群れ」とそれに帰属する「個」が基本的に備えている習性のようなものなのかもしれない。

そして「不完全な個体の完全性の追求」よりも「群れという完全性への依存」を重視することから「群れ」は「個」の上位に、いわゆる「空気を読む」という「人間版・側線」を必然的に実装することになるのだろう。 「側線」とは、イワシのような魚に見られる、頭から尾にかけて走る1本の線のことで、これは人間の感覚における聴覚と触覚を併せ持ったようなはたらきをしているらしい。この「側線」を使ってイワシは水流や水圧の変化から周囲のイワシの存在を感知し、「群れ」を作っている。 なるほど、そう考えると人間も「側線」を外部機能として持っているのかもしれない。 それはスマホであったりSNSであったり、周囲の人間の様子をチラ見して「群れ」を作るためのツール、外部機能のようなものに思えてくる。

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ムクドリに見る「塊(mass)」の危うさと脆弱さ

不完全な個は群れに完全性を依存するため、群れの維持に努める。 それぞれの個は群れという形態を維持するために「群れの中心らしき軸」から離れまいと必死になる。 それは夕刻の空に目にするムクドリの、あの無数の個からなる、まるで一匹の大きな生き物のような動きを見れば顕著なように、はぐれまい、置いていかれまいと、塊の一分子であることに必死だ。

しかしその群れの中では、じつは小さな個がそれぞれより良い位置、つまり外敵から最も安全な位置である中心を取るべくせめぎ合いをしているようだ。 そうした群れの、塊の行動ベクトルは、その構成分子である個の目的、つまり「より安全な中心を目指したい意識の総和」であるから、群れとして掲げたような目的(理想や理念)はじつはない。 レオ・レオニ作の絵本『スイミー』のようにはいかないというわけだ。 結果的にムクドリの群れのベクトルは台風より規則性のないただの迷走する塊でしかない。 無数のムクドリで出来たあの「塊」を見ていればそう考えざるをえない。

そんな群れがある時、強力な猛禽の襲撃のような危機に際してどうなるか。 『スイミー』のように団結して外敵と戦う、とはならない。 外敵に面する外側の者はなんとしても安全な中心に向かおうと周囲を押しのけ、中心に在る者はなんとしてもそのポジションを守ろうと外側から入ってくる者を弾き飛ばし、そして、ムクドリの群れが実際にそうなることがあるように、パニック状態で壁や建築物に激突死するのだ。 それは襲った猛禽も目を丸くするような、危機による被害というよりパニックによる自壊という終わりだろう。

もし仮に、群れの中のあるムクドリが 「このままでは全滅だ。皆、絵本『スイミー』を思い出せ。魚にもできたのだから、我々鳥にだってできるはずだ」 と叫んだところで、おそらくダメだろう。 なぜなら、その群れはすっかり「バラツキを抑制しきったあげくの超高密度群化」しているので物理的慣性が非常に大きく、イノベーターを無力化する構造にロックインされてしまっているので、ベクトルを急には変えられない。 気づいたところでハンドルを切ったところでそのハンドルは重く、曲がり始めるのに数年あるいはもっとかかる鉛で出来た重い車のようなものにがっちり仕上がってしまっている。 「群れ」とは危機に際した場合の設計をしていなければ、取り返しのつかない破滅的欠陥を抱えることになるのだろう。

結局「群れ」の呼び名を変えても
「群れ」は「群れ」でしかない

「飲みニケーション」と言いつつ、群れの危機に際しリストラされた「飲みニケーション仲間」にたいし、同情しつつも一方で「(俺、わたしじゃなくてよかった)」とどこかでほっと胸を撫で下ろすのは薄情でも冷淡でもなく、生態学(ecology)的にみれば、端から「群れる目的はリスクを分散し、種としての残存機会を維持するため」だったのだから責めるべきことではないのではないかと思える。 やれ正規だ非正規だといった格差や争いは、ムクドリのあの黒い渦中と大差ないのではないか。 社会なるものが、企業なるものが、最初から、より優位な中心部を目指す個の塊であったのだから。 ムクドリと大して変わらない塊であったのだから。

よく「人間一人の命は地球より重い」というようなフレーズがあるけれども「あるかいなそんなもん」と思う。 耳触りの良さだけでまったく適当なことを言う。

たとえば、ある日、人類が太刀打ちできないような強力な地球外生命が攻めてきたとして、「一人の犠牲を差し出せば侵略はしない」と言ってきたらどうか。 地球上満場一致でその一人を差し出すだろう。引きずり出すにちがいない。 そして、それはある意味、合理的な判断だ。 仕方がないことなのだ。 それが「群れ」というものであって、そうでなければ「群れ」ではない。 企業も「群れ」であるならば、企業の恩恵にあずかることと、搾取されリストラされることはコインの裏表のようなものなのだろう。アットホームな職場ですといった求人のコピーを生態学的にみれば「この群れはもたないな」という判断も成り立つ。 そのような「生態学的視点」は契約とか感情とかと同列の視点として持っておいたほうがいいと私は思う。「群れ」などというものは、そんなに美しいものでも感動的なものでもないのだ。

なんだかシビアな終わり方になってしまうけれども、こういったことを事実として、知識として受け入れ、それにたいして「さて。ではどうしたものか」と知恵を巡らせることができるのは人間とムクドリの最も大きな違いだと思われるから、そこに一条の光を見出すことこそ、人間の知と意地の見せどころにちがいない。

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