排心主義 心の排斥ではじまるブラック化

「心」というものを排斥した「排心主義」の蔓延ではじまる
ブラック化

これまで40年以上生きてきて、もっとも殺生した回数が多いものは、私自身の「心」ではないかと反省を込めて思う。 しかし、どれほど殺生してもなくならないものが「心」というものでもある。 それをいいことに、「心」はけっこうな頻度で「二の次にする」「圧し殺す」というような否定、虐待をされているのではないだろうか。

心を二の次にする、心を圧し殺す、というかたちで心を否定してしまうようなことを、どんな傍若無人な人間でも人生で一度や二度、気苦労が絶えない人間なら幾千幾万回、やってきただろうと思う。 そりゃあ、たまには自分が折れて立ち回ることも生きていく上では必要だけれども、折ってばかりでは疲れ果て、やがて自分の心を放棄したゾンビ状態になる。 心が目に見えないかたちのないものだといっても、「折る」ということにはそれなりのダメージがあるものだ。木の枝にしたって手当たり次第に折ってしまえば木がボロボロになる。 美しく咲き誇る桜の木の枝を折ることに、憧憬を傷付けるような抵抗を感じるのであれば、心もそれぐらい慎重に扱うべきなのだと私は思う。 心には本来それぐらいの、人知を超えた価値があるにちがいないと私は思っている。

「排心主義」から「拝金主義」が生まれる

結局、人とは心が核で、人生とは心体験というクエスト(探求、quest)のようなものだとするなら、心の優先順位はほぼ、いついかなる時も「一番」に据えるのが基本だと考える。 幸・不幸というものは結局「心の状態」だという事実をわかれば、心ほど重視すべきものはないはず。

「本当はやりたくないけれど、本心ではないけれど、頭でどちらが(金銭的に)得かを考えた結果、そちらを優先する」

こういう思考にたいして心が何の抵抗もしない、疑う思考をしない、あるいはその心の抵抗や疑いを無理矢理ねじ伏せることが常態化すると、「より多く選択したエネルギーの拡大」が速やかに始まる。 そして、たとえば意思決定の基準を心ではなく「金」にした場合、「心」の指定席から心をずるずると引きずり下ろし、代わって「それ」が居座るようになる。 自分の心が王座から排斥され、心以外のものに明け渡されると、徐々に基準や定義が塗り替えられ、最後は行動や言動が支配されていく。 そして、いわゆる「拝金主義」に染まっていくということになるのではないだろうか。

組織の支配層が自らの「排心主義」からの「拝金主義」となると、他の人や生物といった「他の心」も同様にぞんざいに扱うため、その支配が及ぶところは「排心化=ブラック化」していくことになる。

「排心主義」はじつはとても非効率・非生産的

心の優先順位が下がり、ブラック化した状況のひとつが「ブラック企業」だろう。 世知辛い世で思考と行動のすべてを金策に傾けたあげく、人が命であるという認識すら忘れてしまった事態だ。

私は「ブラック企業」に数社、勤めたことがある。 そこはもはや資本主義でも社会主義でもない「排心・拝金主義」というイデオロギーといっても差し支えない、そういうものが支配する場だった。 そういう「排心」が蔓延る場は、じつはものすごく「非効率・非生産的」だということを経験から学んだ。 反面教師というやつだ。良いサンプルがとれた。

そもそも人は誰しも大本に心を宿した存在なので、そこを除外した活動というものは、それこそ機械化、AIにさせるのがいいというか、させるべきなのだろう。 しかし、やむをえずそれを人にさせた場合、もっとも重要な核である心を考慮したシステムではないため、グラウンドプランから大きな矛盾を孕んだ状態となる。 これはたとえるならば、機械仕掛けの設備で出来上がった工場で、電力をケチって必要電力を用意せず操業するようなもので、始まりから終わっている。 本来そこは労働基準法等の法律等が防波堤の役割をしなければならないのだけれども、私の経験からいえばそれらはろくに機能していない。

心を除外した関係性や活動は人間的ではないので人間には土台無理だ。 結果、信頼関係は薄弱、各人の心身の健康状態も良くなく、当然やる気も学習意欲もない。 人間性の、心の除外から始まったプランなど、結局「人間であること」が仇となって瓦解する。 従業員のためにハイスペックのパソコンを用意する、ということもだいじだけれども、それは人間への、心宿すものへの尊重の次にすべきことではないだろうか。

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり
――
武田信玄
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心の状態は資産

「排心主義」に傾き、金や物のみに焦点を合わせていくならば、現在のメインストリームの方向性に概ね問題はない。 しかし「心」を中心に据えて俯瞰してみるとどうか。

たとえ食べるものや着るもの、雨風をしのぐ場があったとしても、人は相も変わらず弱肉強食の文明というサバイバル原野で生きているという事実。 石器を持ち、腰蓑を巻き、猛獣の襲撃を恐れていた太古のスタイルが、 石器の代わりにスマホを持ち、腰蓑に代わってユニクロを身に付け、猛獣に代わって金の請求を恐れることへと置換されただけのように思える。

何よりもまず「心」というものの価値を見直す。 認識を改め、足蹴にされ、スマホよりも見つめられる機会が失われた「心」を沼の底から引き上げてやることが急務だと考える。 なぜなら、私の経験では「心の状態は資産」だからだ。 法律ではそうはいかないだろうけれども、私は心の状態は「資産」だと思っている。

心にパワーがない状態というのは、あらゆる活動、流れにおいて低活性を招き、ろくなことがない。 創造性、独創性、生産性、効率性、親和性、あらゆることの6速ミッションが2速ぐらいまでしか入らない。 機会を逃したり、選択を誤ったり、閃きが来ない、といったことはどんな人生においてもきっと大きな損失だろう。 何ものをも生み出す可能性のある創造の渦の中心は、活き活きとした「心」だと私は思う。 そしてそれは「資産」だといえるのではないだろうか。

つまり仕事だろうが遊びだろうが何だろうが「排心主義」の蔓延るところに幸せやパワーなどない、というのが私の持論だ。 家の中、オフィス、地域、どこで区切ってもかまわないけれども、そこが「排心主義」なら、積極的に「心」を取り込むか、それがもう手の施しようがない状態なら、関わらない、撤退したほうがいいかもしれない。

人間である以上、心は絶対に捨てられないし切り離せない。 「心」を軽んじたロジックやシステムは、どこまでいっても「人間」には馴染まない。 そのロジックやシステムに適合するには、おそらく人間自らが「人間度」を下げて迎合するしかないだろう。つまり「心」をないにひとしいものにしてしまうしか。 そこまでして引き換えるに相応しいものは、私には思い浮かばない。

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