ブレーキング・ポイント

限界期の日本
阻止限界点に立つ今

今、ビールとか発泡酒のCMを作るとして、私だったらどんなCMにするだろう。 いぶし銀の俳優さんを起用して、商品のビールをぐい、と一口。 「ふう」と短く息を吐いた後、

「限界だなあ」

と呟くCMなんかどうだろう。

庶民の飲み物であるビールや発泡酒のCMに今、未来に向かって燦然と輝く希望を見つめた台詞は、多くの視聴者の共感を得られないのではないだろうか。 私なら、そんな歯の浮くような台詞は現実味を感じない、つまらないCMだと思う。 暮れなずむ街を遠目に、堤防に腰掛け、

「これから、どう生きよう」

とかのほうが、もう阻止限界点、2019年の日本のリアルに合っている気がする。 阻止限界点とは「それを越えるともう取り返しがつかなくなる」というポイントだ。 「失われた20年」とも「30年」ともいわれているこの国は、ずっと限界のなかをだましだまし航行してきた飛行機のようなものだろう。 だましだましというのは、つまり健全な飛行ではなく、墜落しないよう機体を軽くするため、荷や人を外に投げ捨てながらの無理がありまくりの飛行ということだ。

そして、2020年を目前に、ここ1、2年がまさに限界期のなかの最後、阻止限界点ではないかと感じている。 ここでこれまでの20年、30年と同じ道を行くなら、後はもう飛行機は墜落、隕石なら衝突、没落期へまっしぐらな感じがする。

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「人生100年時代」という言葉に感じる、
何ともいえない違和感

「人生100年時代」という言葉がそこかしこで使われているのを見かけるけれども、まあなんとも安易なフレーズだなと思う。 医療が、テクノロジーが発達したら寿命100年? もう少し落ち着いて考えたほうがいい。 現在のような経済・社会システムがしばらく継続するとしたら、格差やカオスはますますエクストリーム(極限・極度・過激、extreme)なものになり、貧困層はさらに厚く拡大し、先進医療はおろか、まともな医療すら受けられないケースも増えていくだろう。 おまけに生存におけるストレスが極大化し、食をはじめ品質は劣化し、免疫力の水準は下がり、そもそも「生き辛い世界で長生きを望む」という人間が減っていくのではないだろうか。 さらにAIが本格的な「肉体」に相当する機能を備えると、幅広い産業、経済において、いよいよ多くの人間はあからさまに「余剰人口」として位置づけられ、仮にテクノロジーや予算があったとして、一体誰がどういう理由で、その余剰・過剰扱いされる層に投資するだろうか。

私は今この時代を「経済の危機」というよりもむしろ「人間の危機」の時代だととらえる。 人間社会の生態系において、「金」は「人」より上位にある。 だからこそ「金の切れ目が命の切れ目」になっている。 「命は尊い」などとうわべは綺麗事を言いつつ、実態は「金より尊いものはなし」となっているのではないだろうか。 そういう信念体系で形作られた社会で「人生100年時代」というには、その裏に「ただし……」という「条件」がびっしり書かれていることは、もう多くの方がお気づきのとおりだろう。

氷河期世代の先頭グループもいよいよ初老期、
寿命よりも問題は表現寿命

WHO(世界保健機関)によると、45歳以上を初老期(または向老期。女性の場合は更年期)と定義しているようだ。 いわば「おじいちゃん、おばあちゃんの入り口」ということか。 先の「人生100年時代」に当てはめるなら、人は折返しの半分を前に、もう「いちばん若い老人層」と定義されるわけだ。 さらに、今年2019年は「45歳でリストラ」というケースが相次いで見られ、これからそういったことが加速、スタンダード化するかもしれない気配があるにもかかわらず、まったく「人生100年時代」とはよくいったものだ。

人間の場合、動植物とちがい、バイタルサイン、つまり体温や呼吸、血圧等が正常なら生きていられるわけではない。 水、空気等に加えて「金」が生存条件に入ってくる。 そこで労働なり経済活動に参加して金を得る必要があるのだけれども、人間には単にバイタルを維持した状態「寿命」以外にもさまざまな寿命があるため、活動に制限がかかる。 そのひとつが表現寿命だ。

たとえば、現在44歳の私が今からプロのスポーツ選手になろうとしても、実現可能性が低すぎる、となる。 同様に、私と同世代の女性がアイドルになりたいと思っても、実現可能性が低すぎる、となる。 何にでも言えることだけれども、生きているというだけですべての可能性の門戸が開かれているわけではない。 ある程度の年齢に達すると、身体的にも社会的にも実現可能性が低くなりすぎて思うようにいかないことがある。制限がかかる。 それを表現寿命とよんでいる。

はじめに阻止限界点がちかいと感じる、と書いたのは、数ある理由のひとつに、人口としては比較的分厚い氷河期世代、その表現寿命が迫っている、ということ。 健康上とくに問題がなくとも、現社会において、表現可能性が1ランク下がる、そういう年齢にその世代が突入するということ。 時代の流れ、社会、経済、テクノロジー、さまざまな状況いかんによっては「45歳」はある時代の「60歳ぐらい」の価値になる。 これはずっと以前から考えてはいたことだけれども、今年、相次ぐ「45歳でリストラ」で、この考えはあながち間違いではないと感じている。 そして表現寿命は年々、低年齢化していくようにもみえる一方、いやしかしそれでは回らんとなった人々が表現寿命リミッターを破壊して生存圏を開拓するという、そういうアクションも起こってくるかもしれない。

いずれにせよ、「人生100年時代」などというものが実際的なフレーズとなるためには、健康上の問題などむしろ小さなこと、千変万化する社会的、経済的なハードルのほうがはるかに高く困難なものだと考えている。

阻止限界点を阻止できないまま越えた時、
本当の変革がはじまる

残念な予測だけれども、結局、手をこまねいている時間が長すぎたこの国は阻止限界点で阻止できないまま阻止限界点を越えそうだと考えている。

たとえば、長時間労働。 私も雇われ時代には長時間労働以外の労働をした記憶がないほど、凋落の日本と長時間労働はセットのような気がする。 この長時間労働にまつわる問題、健康や命を損なう可能性が現実的にあると考えられるほど劣悪な労働環境を是正するという、その事ひとつとっても、結局、私が社会に出てから20年以上、それだけの時間があったにもかかわらず、変えられなかったのだ。 私はそうした劣悪な労働環境と縁を切るという個人的な判断で今も生きているけれども、本来、これだけの数と範囲に及ぶ問題は社会全体、国全体として取り組み解決すべき問題であったにもかかわらず、この問題ひとつとっても最近の日本の伝家の宝刀「自己責任」一択しか選択肢はなかった。

この必殺技のように最後にお決まりで登場する「自己責任システム」は、おそらく今後もつづくだろう。なぜなら社会システムとして、流体力学的に、ルサンチマンの抜ける穴がそこにしかないからである。 そして、阻止限界点で阻止できないまま、その巨大なインパクトは「自己責任課題」として我々の現実に激突しそうな気配が濃厚だ。 しかしそれを今さら何を言ってもはじまらない。 落ちてくる隕石を恐竜が騒いだところで結果は変わらなかったであろうことと同じ、「そこからはじめる」しかないようだ。

しかし私はこれをただ絶望することだとは思っていない。 隕石が衝突し、大破壊の後、そこを生き残り今に栄えるゴキブリやドブネズミをみるにつけ、生命というものにはどんな人間の思惑も超えた「サバイバルの秘技」があるようだ。 私のなかにも、あなたのなかにも、その「秘技」はDNAとして、あるいは霊的なエネルギーとして宿っているにちがいない。

死と同じように避けられないものがある。
それは生きることだ
――
チャールズ・スペンサー・チャップリン・ジュニア|映画『ライムライト』より

結局、ヒトもミミズもオケラも同じだ。ただ生きようとする。生命とはそういうものだ。 生命に残される最後の肩書きがあるとすれば、それは「生命」でしかないということだろう。 だったら何があろうと、どうなろうと、試みようじゃないか。生きるということを。

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