言葉ありき

「言語」というもの

以前、何かの活字で 人間の脳は言語的解釈なしにイメージすることはできない というのを目にした覚えがある。

よく、言語や論理を左脳、イメージや感情を右脳が担当しているような説明があるけれども、たしかにそれはそうとして、では右脳派・左脳派とスパッと分けて考えることは現実的なのだろうか。 私は、そうしたものはスパッと切り分けてとらえるより、ホリスティック(holistic)に「統合的全体」としてまずとらえ、その内部構造として2極性や3極性といったものがある、というとらえ方のほうがしっくりくる。 それは「陰陽図」にみるような、黒い領域にも白があり、白い領域にも黒があるように、男性のなかにも女性性があり、女性のなかにも男性性があるように、対極するもの同士の内に互いの要素をもつことで繋がり、統合の内にあるような、そういう造りをみている。
イメージ

これは何にでもいえることではないかと思っていて、たとえばイデオロギーでいうところの左派と右派も、分解してみてみれば、左派のなかにも右派的な、右派のなかにも左派的な観念がみえることがあり、やはりスパッと切り分けてまったく全然異なるもの、ではないことがある。

「イメージ」にたいしての「言語」ではなく、「言語」というものは「イメージ」を「カプセル化(encapsulate)」するような、いわば「圧縮記号」のようなものだと考えてみる。 実際「花」という文字を見れば同時に自動的によりデータ量の大きい「花のイメージ」を思い浮かべるように、「言語」はコミュニケーションにおいて実行効率を向上させる「RISC(Reduced Instruction Set Computer)」のような機能も併せ持っているように思える。
イメージ また、言語は写真に添えられたキャプションのように、イメージに視点や解釈を付与、誘導するような機能もあり、「容器」であったり「糊(のり)」のようであったりと、じつに多機能なものだと思う。

水、空気、言語。
言語は大切

私は生理的に苦手というか気が進まないことがいくつかあって、たとえば「食べ物をぞんざいに扱うさま」は見ているだけで気分が下がる。 同様に「言語がぞんざいに扱われるさま」もがっかりする。

「言語」というものは単なるコミュニケーションの記号ではなく、人間の生の意味と価値に直接かかわる重要なものだと考えている。

たとえば皆、随分重宝しているであろうスマホやパソコンや社会インフラのデジタルシステムの裏は「プログラム言語」という「言語」でびっしりなように、 あるいはDNAの情報もいわば「言語的」であるから理解されるように、 そして日々あれこれ思考し、行動して人生という継続的活動が可能なのも「言語」がありとあらゆる時と場で常に機能しているからこそだと思う。

その時々の流行でさまざまな言語が生まれたり消えたりしているけれども、水や空気のように無意識的に身近に常在するものであるからこそ、たとえば「きたない言語」とか「歪な言語」というのは、水や空気が毒物で汚れるように「言語」という巨大なネットワークを汚してしまっていることがあるかもしれない。

イメージ

地球を覆う海は今、ゴミだらけらしい。 プラスチックのような分解されにくいものが海にあふれ、魚や動物たちに多大な迷惑をかけているらしい。 言語というものも、プラスチックのような(プラスチックワードのことを指しているわけではない)、一時しのぎや一過性の流行に合わせただけのぞんざいな造りのものをポンポン吐き捨てていたら、目には見えないけれども、何というか「言語次元」のような我々の世界にオーバーラップしたような領域をじつはどんどん汚していて、海においてそうであるように、そこから得られる産物がどんどん貧相に、有害なものになっていってしまうような、そんなふうにも思えてくる。 言語というものへの扱いがぞんざいになることは、話すことや読み書きのみにとどまらず、言語的解釈可能な領域へも影響を及ぼすのではないだろうか。 ソースコード然り、浅はかなDNAエンジニアリング然り、現実、然り。

言語と実体

言語はイメージをカプセル化するようなものではないかと書いたけれども、それは実体のコード化のようなもので、肉体におけるDNAのようなものではなかろうか。 言葉は優れたものだけれども、それですべてを上手く回せるのなら人間には「身体(五感)」というものはなかったはずで、たとえば「触れる(触覚)」という体験は言葉を変えてしまうことを実体験として知っている。 実物に触れる前と触れた後では、言語に変化が現れることがある。 体験、感情と言語が紐づき、相互にオーソライズしたものが「観念」であって、それをリコード(書き直す、recode)するような機序が、言語の変化として現れるのではないか。そうした観念の運動として、 ハイデガーの言葉は存在の住処であるとは言い得て妙であり、また言語というものはじつに肉体的なものであるとも思わされる。その成り立ちは「陰陽図」のようだ。

人間の脳は言語的解釈なしにイメージすることはできない

この言葉を「観念をもって言葉のカプセル化(encapsulate)が完了し、扱うことができるようになる」と解釈するなら、ソムリエのように豊かな表現をする時、それは全身全霊の創作であり、表現活動においても「言葉ありき」というのは一理ある。 そして、人生をより馥郁たる香りで満たすような言語獲得のために必要なことは、おそらく、まず言語というものへの敬意に始まり、言語というものに意識的になることであり、言葉が身体に触れるまで、リコードし彫琢することではないだろうか。 そのことは私の場合、他者とのコミュニケーションのためというより、私の私自身にたいする理解と楽しみのために必要なことだと、そう思う。