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そして今、レトロゲームはアートになった

ゲームの「リメイク」「リバイバル」が目立つ。 これにはさまざまな理由があるだろう。 国内ゲーム市場に黄金期ほどの元気がないことや、人口構成的に第2次ベビーブームのアラフォー世代(レトロゲームの主たるターゲット層)が多いことなどか。 いずれにせよ、私がファミコンやメガドライブで遊んでいた数十年前のタイトルがいまだにシリーズとして生き残っていることや、あるいはそのまま「リメイク」「リバイバル」といったかたちで2019年現在も現役コンテンツになり得ていること自体、当時の少年からすると予想だにしない出来事だ。

ただ、考えようによっては日本が「このようなありさま」となった今、黄金期のレトロゲームはかけがえのない価値の高い遺産でもある。 8ビットや16ビット機の制限された表現能力は、現実ほぼありのままの表現が可能となった現在、一周して「ポップアート」的な価値の側面が光る。 ドット絵の妙技の前ではリアル偏重のグラフィックは逆に洗練が足りないとも思うし、本質から遠ざかった、という視点もある。 とにかく今、レトロゲームにはアートの香りがプンプンする。

そして今、当時の少年はアートの滋味が分かる感性をもった大人になった。 旧いレコード盤の味わい深い「Lo-Fi」の音に愉悦を感じられるその感性は、レトロゲームにも向けられる。 「レトロゲーム」という「アート」を楽しむ時代が、まさに「今」なのかもしれない。

Lo-Fiの滋味、良い意味での泥臭さのようなもの。
分かるやつにしか分からない、空気なんて読まないカッコよさのようなものが、
レトロゲームにはあった

ハイレゾのような「Hi-Fi(高忠実度、高再現性)」の魅力も良い。 それと同様に「Lo-Fi」、ちょっと泥臭かったりする、ノイズの良さみたいなものもある。 「レトロ」が持つ魅力のひとつ。

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「奇跡の出合い」はやっぱりここだったかな。 画面に映るキャラクターを自在に動かして、崖っぷちでは我が身のことのようにヒヤヒヤして、マリオが飛んで跳ねて、心も飛んで跳ねた。 「ゲーム」というものから、もう引き返すことはないだろうと思わせてくれたのも、やっぱりマリオだったかな。 「本当にありがとう」だね。 イメージ
なんだいこの泥臭いメンツは。皆イイ面してんじゃねえか、まったくよ。 この「近所のおっさん」みたいなのが巨悪に立ち向かうからこそ燃え上がるのよ。何でもかんでも美形揃いの昨今のゲームは、ユーザーに気遣い過ぎてていけねえな。 ちなみに後に美形になってしまう「アルカード」も、この時は「初代ジェームズ・ボンド」的な昭和臭漂う骨太な漢(おとこ)だった。 それと、この「モノ感」が良い。箱や説明書も含めたモノの古美(ふるび)る感じ、手触りや重みもレトロの醍醐味。 イメージ
鮮烈でクールな「スケルトン・カセット」が当時、ハートにズドンと来た「沙羅曼蛇」。 初代iMac(1998)よりも12年も早く、1986年にこの「スケルトンのカッコよさ」に目をつけていたコナミさん、すごいよ。 すごいと言えば、スペック的に厳しいアーケードからの移植を職人的アレンジでファミコン化していたすべての作品に、今あらためて拍手。 イメージ
普通はね、ここまで難度を高く設定したゲームは「クソゲー」呼ばわりされて終わるんですよ。 「忍者龍剣伝」がとんでもないのは、この難しさでありながら、その中身はスイス時計のような緻密な計算がされているものだから、投げたコントローラーを何度でも自分から拾いに行ってしまう「職人の為せる技」が凝縮されていることにある。まさに「忍中毒(しのびちゅうどく)」だ。 回転斬りからのボス一撃必殺は30年以上経った今でもドーパミンが飛び出てしまう美しさ。 イメージ
天才ゲームデザイナー「遠藤雅伸氏」は私にとってブランドだった。 そして、私にゲームを通してゲームとは何なのかを教えてくれた先生のような存在でもある。 あれから時を経て、私は今、デザイン系の仕事をしているけれども、この「ゼビウス」ほど結局のところ「真にデザインされたシューティング」はないと思っている。 画面に映っているのは「ゼビウス」という世界のディテールの氷山の一角、ほんの数パーセントにすぎないだろう。 かつてゲームを楽しんでいた少年がブラウン管の裏に秘められた壮大なディテールを知るのは、少し後になってからである。 今なら断言できる。「ゼビウスとは、デザインだ」 イメージ
グラフィック(末弥純氏)、音楽(羽田健太郎氏)、プロデューサー(遠藤雅伸氏/ゲームスタジオ)という奇跡の三重奏から生まれた至高の作品。ゲームシステム&バランスからパッケージに至るまで、数学的な美しさ、体系美すら感じさせるRPG「ウィザードリィ」。 「RPGのバッハ」的存在のこの作品を究極的に磨き上げたのが、遠藤雅伸氏をはじめとする「ゲームスタジオ」。ゲームスタジオ×ウィザードリィは、私にとってはストラディヴァリウス×バッハと同義なのである。 イメージ
レトロゲームと言えば「原作度外視でも良ゲームに仕上げてしまう力技」。 これはある意味、ゲームというものが分かっている証拠だろう。「ゲームとしての骨格がしっかり出来上がっている」からこそ、その上にどんな肉付けをしようが基本的娯楽性がブレない。「こんなの、原作になかっただろうがよ!」と叫びながらも、原作以上にのめり込ませるドット・デフォルマシオン。
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短時間で一周できるレトロゲーム。
一晩で数タイトルのマラソンは大人の遊び

レトロゲーム1タイトルは、現代のデジタル画像一枚にも満たないコンパクトなデータ量。 だからこそ無駄を極限まで削ぎ落とした「引き算の美学」が眩しいほどの輝きを放つ。 昨今のような「コンフィグ」設定で難易度から何から自由にヌルくして、エンディングまでやわらかな絨毯の上を歩けるような配慮など、ない。 空から容赦なく降ってくる岩石やう○ちに当たれば屈強な主人公であっても即あの世行きだ。 一歩踏み外せば谷底へ落ちるという場面にかぎって落とす気満々の敵が集団で襲い掛かってくるわ、どう見ても数人しか乗り込めないような乗り物から敵が無限に降りてくるわ、生身の人間一人を相手に戦艦が全力で艦砲射撃してくるわ、通常の思考など何処吹く風、トラウマになっても自己責任。 容量が少ないからこそ、そうやすやすとエンディングを見せては商品寿命が縮むとばかりに、理不尽きわまりない鬼のような攻めを見せてくれる。

しかしその「えげつなさ」があるからこそ、キレる闘志が湧き上がり、お金を払って買ってまで苦しむバカがどこにいるものかと思いつつも、少年はもはや「自分との戦い」にゲームをクリアすることそれ以上の意味を見出したものだ。 そして、その飽くなき挑戦、研鑽の先には、自分でも惚れ惚れするような「技術」を手に入れることができる。 主人公が死んだ瞬間にコンティニューのためのボタンを連打し、すべての初見殺しを体験し、見切り、筋トレのような反復作業と反省を重ね、指数関数的にプレイヤー自身が成長する喜びはレトロゲームの真骨頂だろう。 そう。 レトロゲームではキャラクターではなく、むしろ自分自身、人間自身が成長する要素が豊富にある。

思えば凪か停滞かで30年過ぎ去った「平成」時代、そして、これからどうなるか分からない「凪と停滞|シーズン2」となるやもしれぬ「令和」時代にこそ、「折れない心の養成ギブス」としてレトロゲームを楽しみたい。

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ここにあるゲーム、RPGやSLGをのぞけば、一晩のマラソンプレイで全タイトルエンディングも可能なのがレトロゲームの良いところ。 上達すれば30分前後で全クリできる、そのプレイ時間、プレイ感覚が絶妙。

旧い、新しいというのは、ただ時系列にソートしただけであって「新しいほど良い」と短絡的に価値に結びつけることほど皮相な視座はない。 なぜなら、現実にあるからね。失ってしまったものとか、昔のほうが良かったこと。ゲームという文化史においても、相克や葛藤、昏迷の時代あり、プレイヤーも作り手も精熟に達した時代あり、時は巡る。私の眼には、今は「レトロ」とよばれるゲーム時代は、かつての元禄時代のごとき百花繚乱の時代と映る。

私は、苦労はさせられたけれども、同時に愛着や想像力を刺激してくれたレトロゲームが好きだ。 まるで「テクノロジーに拝跪したようなゲーム」を見かける昨今、「ガチで遊びたい人間に向けて直球を投げてくれた」あの頃のゲームは、私にとって終生「遊び」であり続けるだろう。