私がモダネグジットする理由

〈モダネグジット〉なんて私が適当に造ってみた言葉で、
目を引く、目に引っかかるようにしたプラスチックワードです

「ブレグジット」って言葉をはじめて見た時、聞いた時「何だそれ?」となった。 「イギリスがEUを離脱すること」を指した「British」と 「exit」の混成語だと知って 「普通にそう言えよ」 と思った人はきっと世の中に私一人ではないとは思うけれども、ある意味その言葉は目を引いた、目に引っ掛かったことはたしかで、 ああ、こういうのもありなんだな、と思ったものだから、私も戯れ感覚でモダネグジットと造ってみますよ。 「Modern」と「exit」の混成語で「モダン(モダニズム)から離脱すること」という意味です。 もしかすると、こんな混成語は間違っているのかもしれませんけどね。 別に何かの試験でもなし、タイトル映えしたのでこれでいきます。

そもそもモダンがそそらない、滾(たぎ)らなくなってきたから、
もう〈モダネグジット〉でいい

最近、最新の事柄に「滾(たぎ)らない」感じが日に日に大きくなっていて、最初は男性の更年期か何かかと思ったりしていたのだけれども、どうもそうではなかったようだ。 滾るものにはちゃんと滾る。 その「滾る」対象が「最近・最新」のもののなかにないだけで、先日も「のこぎりで木材を切ること」にテンションが上がったし、『大魔界村』もつい熱くなって想定以上の時間遊んでしまった。 この場合「身体性を伴うもの」「レトロなこと」にどうやら私のワクワク感が反応したらしい。 共通するのは「最近・最新のトレンドではない」ということ。

私にとって「最近・最新のトレンド」は 「ああ、トレンドなのか……だったら遠慮しようかな」 と半ば条件反射してしまうほど、期待に遠く及ばないものとなりつつある。 最新のトレンドを意識するのは、すっかりビジネス・営利目的においてのみになって、より多数の人間に訴求する金稼ぎのための基準でしかなくなり、 私個人のゴムまりのように跳ねる、躍動する好奇心や挑戦、興味や快楽のなかにトレンドの居場所はなくなっている。

モダニズム×マーケットのメインストリームは、
少数派の私にとってはますます興を見出すことが難しいものに。
〈モダネグジット〉によって熱を帯びる内なるセルフデザイン観

かつて西部邁氏がこのようなことを語っておられた。
大量に売れそうなものを皆が作り始めると、繊細な神経の持ち主の好みのもの(少数派の意だと私は解釈している)はマーケットに現れて来ない。 これは現実として体感としてまったくそのとおりだと思うところで、私が 「私が街に興味をなくし、街も私に興味をなくした」 と言っていることそのものだと思う。 そしてさらに
マーケットでは人が好むものは何でも誰かが作るという、でもそれは非常に楽観的なマーケットであって(後略) これもまったく同感で、膨大な不特定多数「マス(mass)」にたいして好まれそうなもの売れそうなものというのは、ごく表面的な最大公約数的なところだけをがばーっと汲んで「迷ったら多数派、あるいは流行に寄せる」という基準で、とりあえずより多く購買に至らせれば売上という目的は達成されるのだから、分かりやすい快楽的で楽観的なところだけをトリミングして放ったほうが効率が良いだろう。 結果、極度に模型化されたものがあふれ、マーケットは一定の利潤を確保するためにトレンドに蝟集し、猿真似のドミノ現象とでもいうべきもの一色になり、平板と退屈が広がるのみである。 つまりマーケットの基準、照準は常に、大量に向けた「俗受け」するかどうかであって、その出し物の場でしかない。

その結果、同氏もそう言っておられたが、私も 「欲しいものが何もない」 ということになる。 ただ、私の場合、それは今現在のマーケットにはないだけで、レトロやニッチといった少数派の通るフリンジストリームにはまだ残っているのが幸いだ。

イメージ

つまり、私がモダネグジットに至ったのは、「マス(mass)」のための装置としてのマーケットと、「マス(mass)」に関心もなければその一粒を演じきる気もない私、相互に反りが合わなくなったということだ。 「マーケット」というものが、まだ「市場(いちば)」であったころには実体的個人を意識したものがいくらか存在していたけれど、「市場(しじょう)」となれば、層や数で扱われる非実体(ターゲット層、再生回数等)だけが対象となり、その一部として与することを良く思わない私のような者は、当然のことながらマーケットはどんどんつまらない場所になっていくのである。

不特定多数という集合体に放たれ、受けるものとは、
得てして中位止まりのもの

「街に出ても興味をそそるもの欲しいものがない」 というのは私の肌理が、自分らしさの細工がいよいよ行き届き、堂に入ってきたのだと思っている。 現在のモダニズムが一人ひとりの、ユニークな気質の御眼鏡に適うものを作り出す器用さ、余裕があるはずもなく、 実際、マーケットはそんなに優れたものだとは思えない。 私も作る側の職業だけれども、結局「作りたいものと売れるものはちがう」というところで「ライスワーク(食うための仕事)」化しているところが多分にあり、同様の人や企業も相当数あるのだろうと考えるなら、マーケットというのは非常に煩雑な場所であり、雑踏のようなもので、そこに無理してまで自分を合わせる価値はない、と私は考えている。 むしろマーケットに適合し続けていくという生き方は、程度が常に中位を彷徨う、滋味も個性もない人間になっていくことなのではないかと、私自身は避けている。

幸福や個性ほど定義自由なものはないし、デザインしがいのあるものはない。 私にとってはモダンであるかどうかなど、幸福であるかどうか、個性的であるかどうかに比べれば、吹けば飛ぶ鼻クソのようなものにすぎないのだから、ブレグジットのような困難さも何もなく、軽やかに「exit」できるというモダネグジットの話でした。

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