オサムシ的箱庭宇宙観 これからのファウナを生きる

オサムシ的箱庭宇宙観とは ――
「地域変異」がもたらす可能性

オサムシ」という虫は、翅(はね)が退化して飛べない種が多いため、大きな移動ができず、結果「地域変異」が豊かな虫だ。 有り体にいえば、とても地元意識が強いというか、身体までその地元に合わせた「地元特化型」の昆虫、といったところか。 そのため多様で、ヨーロッパでは古くから歩く宝石というレアキャラ感満載の扱いを受けながらも、一方でゴミムシと扱われるなど、持ち上げられたり落とされたりと不思議な虫だ。 ちなみに私も子供の頃は昆虫大好き少年だったので実物を捕まえたことがあるけれども、はっきり言って「地味な虫」だ。 甲虫王者然としたツノが立派なカブトムシや、そのライバル的存在感を放つクワガタと比べたら、地味そのもの。 昆虫マニアだった少年の私は「オサムシ」を捕まえても「なんだよ、オサムシかよー」とすぐにリリースしたものだ。

あれから数十年の時が流れ、日本の事情もすっかり変わった。 私が住んでいる地方の町は、眺めるかぎり、平均年齢が還暦ぐらいになっているんじゃないかと思うほど、高齢化が進んでいる。 空き家らしきくたびれた家も増え、なかなかの凋落ぶりだ。 そんな景色のなかを歩く時、ふと、かつて「なんだよ、オサムシかよー」とぞんざいに扱っていた、あの「オサムシ」のことを思うことがある。 彼らの「地域変異」という特徴だ。 「地方創生とか言っても、もう手遅れだろう」 と思わせられる実際の光景を目の当たりにするにつけ、そうか、これはもう「オサムシ」になればいいんじゃないか、と思った。 触覚を付けて出歩くというコスプレではない。 「地域変異」という能力は、その地が枯れ果てても、そこから逃げられない、離れられないような時、自分自身をトランスフォームして生き残るという、現代日本にうってつけの能力に思えてくる。 口で言うほど簡単ではないだろうけれども、しかしこのオサムシ的箱庭宇宙観はこれからの衰退環境を生きる上で大きなアイデアのひとつになるはずだ。

人は資本ほど簡単に移動できない。
経済的に空っぽになった土地に取り残される人々。
長く気怠いサバイバル環境が醸成するファウナ&カルチャー

ある日、近所を歩いていて、面白いものを見つけた。 一見ただの民家に、手作り感あふれる看板が上がっている。 どうやら自転車の修理をしているらしい。 かつては自転車店のスタッフでもしていたのだろうか、自転車のトラブルに関しては何でも気軽に相談できそうな感じだ。 別の日に、実際に誰かが立ち寄っていることもあった。 商売は成り立っているようだ。

今や商店街も次々と姿を消すか風前の灯のようなところが多いなか、 個人が自分のスキルを使って、構えなど気にせず、「自分にできること」をごく限られた地域のなかで振るい、いくばくかの収入を得るかたちに、昔なら目も足も止めなかったかもしれないが今はちがう。 こういう、可能性の一つひとつを拾っていく姿勢が、これからの時代を生きるには必要なことなのだろうと思う。 国内の地方がこのまま衰退の一途をたどるなら、そして、すべての人間が東京やら都会やらに移動して解決、などという単純な問題ばかりを抱えているわけではないのなら、「地方創生」という現状「プラスチックワード」と化している言葉に期待することなく、実地で1円の売上から種を蒔くような、先の自転車修理のような行動のほうがエフェクティブだと思う。

特異なコミュニケーションやコモンセンスまでもがある箱庭空間で生まれ、醸成され、ガラパゴスよりももっと小さな「ファウナ」を形成する。そこでサバイバルを営むというかたちも具体的に考え、初手をつける段階にあると思う。

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地方こそテクノロジーをフルに使うべき。
テクノロジーがもたらせそうな「地方アトリエ」というかたち

地球のどこかの小さな町で誰かが作った曲は、今は人が介したプロセスを10も100も省略してネットで公開、多くの人間の耳に届けられ、価値が認められればすぐに商売になる。 扱うものによっては空間の制約・抵抗をまったくといっていいほど受けない時代。 地方に無理やり人を増やそうとするような、そんな魚礁づくりのような物理的・時間的にコストやカロリーのかかるものよりも、コンテンツづくりに意識とコストを割くべきではないだろうか。

たとえば、限界集落の廃屋を占拠したサル集団と住人との抗争を映像・サウンドにこだわって編集、YouTubeで配信すれば、けっこうな再生回数を稼げそうだし、 たとえば、軍艦島のような廃墟と化した場所をAR(拡張現実)を用いて実体験型ホラーゲーム・コンテンツにするとか、アイデアはいくらか出てきそうではある。

その地域の人口や平均年齢が幸福度に直結する指標になるかといえば、地方にいる私自身の感覚からすればピンとこない。 それよりも、収入が増えること、地域経済のベロシティ(速度、velocity)を上げることのほうがダイレクトに人の幸福度に作用するのではないだろうか。 地方をなんとかするには、苦し紛れの観光資源で直接アクセスを望むより、外国人のインバウンド消費をあてにするより、もっと自主独立性のある地方発のコンテンツ資産を「ネット上に築く」あるいは「ネットと関連させたコンテンツ化」等に力を入れたほうがまだましなのではないかと思う。

今はネット環境さえあればAmazon等を利用して物は確実に届くし、映画だっていくらでも観られる。 物体としてストアや映画館がなければサービスを享受できない時代はとっくに終わった。 経済ですら、紙幣や硬貨はもういらない、単なる数字になっている。 「地方×テクノロジー」は「地域変異」を促し、土地の価格や家賃等、固定費も安くつく環境は、コンテンツを作り出す「アトリエ」として、生存コストだけで疲弊する都会の中心よりも便利だと思うのは私だけだろうか。

「オラ東京さ行ぐだ」という観念や状態を未だに引きずっているのは、体制・観念・価値観、稼働方法が昭和からアップグレードされていないという理由が大きいと考えていて、技術的には「オラわざわざ東京さ行がね」というのが充分できるようになっている。 もちろん、ある程度可能な業種とそうでない業種はあるけれども、「働くこととは満員電車に乗ることと見つけたり」というような観念は、これからの地方の凋落を加速させはすれども揚力にはまったくならないだろう。

とにかく地方にはテクノロジーが「貧者の宝刀」、切り札になる可能性は高いはず。 情報戦力・コンテンツ製造能力さえあれば、デカい城はいらない戦国時代。 アリでもキリギリスでもない「オサムシ・スタイル」をもっと掘り下げていこうと思う。

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