本のチカラ

情報に触れるなら、役立つ知識になったり幸福度を上げるもの。
ストレスのみを生むような情報なら触れないほうがいいと思う

私はツイッターもフェイスブックも、アカウントをもっていない。
食わず嫌いでは評価できないので、とりあえずそういったSNSもリリース早期に取り入れてみたものの、私の場合はどうもしっくりこなかった。

私の周りではSNSに熱心な人もいて、空いた時間にまめにスマホとにらめっこしている人もいるけれど、いわゆるアンチなリプ(リプライ)に本気でイライラしたりしていて、傍で見ていてとても楽しそうには見えないし、イライラする機会なんてないにこしたことはなくて、機嫌よくのほほんとしているのが好きだ。 自分の顔を鏡で見るにしても他人の顔を見るにしても、笑顔のほうが気分が良い。

そもそも、私にとっての「情報」は「栄養」にちかいとらえ方で、ストレスや不快だけを生む情報は遠ざけるし、そこにお金や時間、意識を使いたくない。 時間や意識は最も貴重な資源で、ポジティブな焦点に集中させている時はなんというか、幸せだ。 不快なことにそれを使ってしまうのは、単純にもったいないと思っている。

SNSやブログを「丸太」とするなら、
本は「橋」

イメージ

「読む」ということをするなら、私は「」の上でそれを行うことが好きだ。 SNSをしていた時もいろいろ読んだけれど、満足感がなかった。 その原因はきっとこうだ。

ゴールがものすごく近い、早く楽に行けるところに設定している時はほんの少しの情報でも事足りる。SNSやチャット向きともいえる。 たとえばネットで買うかどうか検討中の商品について「水に濡れても大丈夫かどうか」という問いにたいする情報が欲しい時には「完全防水」というたったこれだけの情報で納得できる。 しかしこれが「これからの時代、これからの人生をどう生きていこうか」ということにたいする情報はそんな少ないわけにはまずいかない。 「一転語」のような意味と価値が高密度な情報は滅多になく、大抵は量をもって突き詰める必要がある。

SNSで扱われる情報は、私のイメージでは「丸太」のようなものに思える。 ちょっとした水溜まりや小さな川のあちら側へ行くのには使えるけれど、大きな川や海を渡るのにはまったく足りない。 その場合は高度な構造計算がされ、強度を持った橋梁「橋」が必要で、「SNSの情報」を「丸太」とするなら「橋」は「本」になる。

SNSやネットにあふれる膨大な情報は、主に「丸太的情報」あるいは「橋の名前や橋への案内」であって、「橋を渡る体験」はまず「本」でしかできない。

人間、歳をとれば身体的な跳躍力は減衰するが、知の堆積という踏み台が立派になるおかげで、些細なことは丸太を必要とせず知識と経験で飛び越えられる、知的跳躍距離は増すものだ。 そうなると、ネットに訊きたいことはますますインスタントな知識、「乗り換え案内」とか「簡単なレシピ」といった程度の味読という行為に達しない情報ばかりになる。 そうして「読む」という行為の舞台が、歳とともにますます「書物」へと重心をおくようになる。 言葉というものもある程度の質と量に達してはじめて、ある重みに達し、心の深いところへと沈み込むことができるようになるところがあるので、長い年月を生きた心の厚みの奥へとどくような言葉に出合う方法が、さしあたり本しかない、といったところか。

自分にとっての良書は、
知的「体験」といえる価値ある経験

自分にとっての良書を読み終えた時のあの満足感は、SNSに何百時間費やしても得られることはないだろうと感じる。 打って放って終わりのぞんざいな言葉とはちがい、本の言葉は「デザインされている」からだろう。 一作品、一アートとして彫琢されたテクストは、本のなかでしか出合ったことがない。 本はとてもスタティックな趣味のようで、じつはとてもエキサイティングで圧縮された高エネルギーなものだといつも思う。

モバイルバッテリーと本を持って、どちらのエネルギーがすごいかと想像すると、人の人生を変えてしまうほどの本のそれにはただただ、感服する。 本はたぶん、一生好きでいられる。

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