情報ダウジング

人間には、今、自分にとって本当に必要な情報が何か、
それを直感的に感知できる能力が備わっていると考える

知らない街にいても、猛烈に腹が減った状態だと本能のセンサーがはたらくのか、飲食店やらなにかそういう腹を満たす存在に、ネットに繋がなくともスムースにたどり着けることがある。 あるいは何を食べようか迷う余地もなく、ある食べ物をやたらと身体が欲し、そのイメージばかりが頭をよぎり、それを食べることで身体の調子が良くなったりすることがある。 そしてそういった感覚、直感というものに裏切られたことは、思い出せる記憶上にはない。 個人的なことだけれども、似たような経験、認識の人はいるのではないだろうか。

野生の生き物はみなタフで知性に富んでいると思う。 何の道具も持たず、自分の役割と仕事を完遂し、天然界と完全に調和し生きている。 では人間だけが彼らからかけ離れた元来ポンコツな生き物なのかといえば、そんなことはないと思う。 ただ見てのとおり、文明にどっぷり浸かり続けているために、野生の生き物たちがみな持っているような能力のスイッチが「OFF」になっているのだろう。 とくに昨今のIT漬けで有史以来もっとも鈍感になっているような気もする。

ダウジング」というものがある。 21世紀の文明圏で生きている人間にとっては、ちょっといかがわしい、眉唾ものの方法に見えるけれども、それはいろんな本能機能が「OFF」になってしまっているからそう考えるのかもしれない。 人間が生存するのに必要な情報、水や食物のありかをいちいちネットに頼っていられなかった時代、人間は他の生物同様にタフで、さまざまな機能が「ON」になっていたにちがいない。 そしてそれらの機能、能力は現代人から根こそぎ失われてしまったわけではなく、使わないものは退化する=廃用性萎縮によって、ずっと眠ったままになっているのだろう。 人生で生まれてこの方一度も起動したことがないような高性能な機能がわんさかあって、それは単純にもったいないことだと思う。

画面に映る情報は過度にトリミングされてしまっている。
それはさながら白米のように

現代文明を生きる人の情報収集は、ネット、テレビ、ラジオ、新聞etc.と、どれも人工的に加工済みの情報ばかり。 それも情報の受け手の快楽をこれでもかと刺激しようと躍起になった加工が多く、いわば口当たり、味は美味しいけれども、栄養成分が精米によってごっそり削ぎ落とされた白米のような情報ではないだろうか。

ネットでどのWebサイトを見ても同じ広告がしつこく表示されるというのは「Cookie(クッキー)」という仕組みによるものだけれども、これは「過度にトリミングされた情報」ばかりを目に入れられるという、好ましくない状況だ。 知らず識らずのうちに昨日、一昨日と99%同じような情報に触れ、脳や心が無意識的にマンネリで辟易し、直感がぼー……っとしてくると「なんか楽しいことないかなあ」などと口にしだして、自分の興味関心の所在がわからない、何が楽しいのか、もやもやしてはっきりしない、そういう状態になだれ込んでしまうような気がしている。 自分の感覚が麻酔を打たれたように鈍いと感じたら、いったん「白米的情報」から距離をおき、「玄米的情報」に目を向けるのも良いかもしれない。

過度の「安静」という状態は理想でも天国でもない

先述の「廃用性萎縮」というもの。 つまり、使わなさ過ぎて退化、失われていくことだけれど、これが起こるメカニズムを知っておくことは重要だろう。 ずばり「廃用性萎縮」は「過度の、行き過ぎた安静状態が長く続くこと」によって起こる。 「安」という字にはどこか目指したくなる甘美な響きがあるが、過ぎたれば話は別、すべて「バランス(中庸)」を欠いては毒にもなり害にもなるということか。 すべてが自分の慣れ親しんだものばかりであつらえられる、囲まれるというのは、コントラストを失くしてメリハリが消えていくことに繋がるのだろう。

自分好みにソートされていない情報ゾーンに入る。
外部機能の「検索」を制限、「直感」に負荷をかける。
身体機能としての情報収集能力をフルに使う

私は数年前から、ほぼネットオンリーだった情報収集フローに「直感→採掘→発見」というフローを積極的に取り込んでみた。 それは言い換えれば、目的以外の周辺の景色も視野に入るような情報収集方。

ある時「自分に必要な情報が何なのかを自分の思い込みで決めていることがある」というトラップに気づいた。 そしてその思い込みのせいで、逆に必要な結果、望む結果から遠のいてしまっていることがある。 どうも「脳みそひとつ」では往々にして判断を誤るらしい。 「腸」の要請で「脳」の司令が変わるという話を聞いたこともあるし、人間、自分自身というものをホリスティック(全体的、holistic)にとらえなければ「バランス(中庸)」から逸脱してしまうようだ。

その意味で「端末のスクリーンとにらめっこ状態というガチガチの固定スタイル検索」は身体性に乏しいと考える。 脳の負荷に偏っている可能性がないともいえない。 そこで、脳の独断を避けるため、身体全体を使う。移動する。 たとえば最近元気がない「本屋」は意外な副次効果を生んでくれる場所だと考えている。

本屋の「本」は物体で、3D空間に在る。 目の高さ、目の上の高さ、手に取りやすい位置、取りにくい位置、遠くにあって一際目を引く表紙、背だけが見えるもの、平台に置かれたもの。 サイズや紙質もまちまち。 検索装置はあっても、それは書棚の位置までのガイドで、最終的には身体を使う。 「不便」という言葉を「脳だけで事が済まない」という横着な文句として使う場合、それは大切な何かを見落とす可能性があると考えている。

明確な目的もなく本屋という空間に入ると「景色としての本」が見える。 そこから足を使って上下左右に目を凝らして、自分がどの本に「ピコピン!」とくるのか、身体まかせになる。 それは「縁」と呼んでもいいかもしれない。 たまたま本が重なって、下になったその本を見過ごすことがあっても、それは「縁がなかった」とすればいい。 身体と直感に負荷をかける情報収集は、検索というデジタルで正確無比、ピンポイントな方法よりも、本能的で、潜在的なエリアにもレーダーを向けるような、シンクロニシティ性も多様に現れると感じる。

イメージ

ポイントは、興味をひくもの、なんとなくフィーリングが良いと感じるもののイメージを無理にはっきりさせることなく、頭の片隅に置いてとりあえず行動してみる。 そうすると街の看板や電車の中吊り広告、たまたま目の前の人が持っていたグッズ等、目的につながるフックになるような現象と邂逅することがある。 そして面白いことに、ちゃんとそのフックに「ピコピン!」と反応して見逃さない。 どういうモノ、どういうコトが必要なのかがはっきりして、目的も目的地もクリアになる。 先日もそうして買った本があるけれども、中身はドンピシャ、その日から早速使える知識だった。 こういうのは気分まで上向く。

身体丸ごとレーダー化で、情報ダウジングの楽しみを

スマホもパソコンもコンピューターもない時代から、人は発明したり創造性を発揮して、豊かな生を送ってきた。 そこには人間本来のナチュラルで高度な情報収集能力があっただろう。 むしろ今のハイテク時代を生きる人間のほうが、いつも同じバナー、ランキング上位の事象、検索結果せいぜい1ページ目どまりの知識、誰も皆似たような話題を口にし、オリジナリティのない知識だけで脳のメモリーの大半を消費しているのではないだろうか。 これは私自身いつも意識していて、どっぷり飲み込まれないように気をつけていることでもある。

使わなさ過ぎてひょろひょろのもやしみたいになった直感を、もう一度筋トレのように使って鍛えて、人生最強のレーダーに戻すことができたなら、日々、あちこちに「Wonder」を探知するにちがいない、そう思っている。

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